「人は他者を通じて人となる」——ウブントゥを一つの標語にしない
ウブントゥという語の歴史と格言をたどり、関係の中で人間になるとは何を意味するのかを考えます。
連絡先は増えたのに、頼れる人が思い浮かばない。会議には何人もいるのに、誰にも見られていない気がする。
そんなとき、孤独は自分の内側だけにある問題に見えます。「もっと自信を持とう」「一人でも平気になろう」と、自分を強くする方法を探したくなります。
南部アフリカで語られてきたウブントゥ(ubuntu)は、問いの向きを変えます。人間性は、一人で完成させてから社会へ持ち出すものなのでしょうか。それとも、人と人のあいだで育ち、傷つき、回復するものなのでしょうか。
ウブントゥは、最初から一冊の哲学書だったのか
ウブントゥは、ズールー語やコサ語など、南部アフリカのングニ語群で使われる語です。「人間性」「人としてのよさ」「人間らしい振る舞い」といった意味に関わります。ただし、古代から変わらない一冊の教典や、一人の創始者がいるわけではありません。
研究者クリスチャン・ゲードは、1846年から2011年までの文献をたどり、ウブントゥという語の説明がどう変わったかを調べました。1950年以前の記述では、主に人が備える資質として説明されています。その後、20世紀後半になると、アフリカ的人間主義、倫理、哲学、世界観という広い意味で語られるようになりました。
つまり、現在知られている「ウブントゥ哲学」は、古い語や生活実践を土台にしながら、植民地支配、アパルトヘイト、独立と民主化をめぐる議論の中で、繰り返し言い直されてきた思想です。歴史が浅いという意味ではありません。生きた言葉には、使われてきた時間と、解釈され直してきた時間の両方があるということです。
一つの格言が、現代のウブントゥを形づくった
ウブントゥを紹介するとき、よく次のングニ語の格言が用いられます。
Umuntu ngumuntu ngabantu.
日本語では「人は他者を通じて人となる」「人は人々によって人である」などと訳せます。訳し方には幅がありますが、共通するのは、人を孤立した存在として捉えないことです。
ここで注意したいのは、この格言が昔から「ウブントゥの定義」として固定されていたわけではない点です。ゲードの調査では、書かれた言説の中で格言がウブントゥの説明に結びつくのは、1993年から1995年ごろです。アパルトヘイト後の南アフリカが、新しい社会の価値を探していた時期と重なります。
宗教学者ジョン・ムビティの有名な英語表現も、しばしば同じ言葉として紹介されます。
I am, because we are; and since we are, therefore I am.
これはアフリカの宗教と共同体的人間観を説明するムビティの定式です。格言の直訳ではありません。二つを区別すると、むしろ面白さが増します。同じ関係的人間観が、ことわざ、宗教哲学、政治、倫理学の中で、それぞれ異なる形を取ってきたことが見えてくるからです。
関係の中で「人になる」とはどういうことか
哲学者モゴベ・ラモセは、人間であることを、完成した属性ではなく、他者の人間性を認めながら自分の人間性も形づくる過程として論じました。倫理学者サディアス・メッツは、ウブントゥを現代の倫理理論として整理し、他者と同一化することと、連帯して行動することの結びつきに注目します。
研究者によって説明は異なります。それでも、ここには一つの重要な反転があります。
私たちは普段、「人間だから尊重される」と考えます。ウブントゥの議論は、それに加えて、人を尊重する行為を通して、自分も人間らしくなっていくと考えます。人間性は権利の資格であると同時に、関係の中で実現される課題でもあるのです。
ただし、これは共同体に従えばよいという意味ではありません。集団が誰かの尊厳を傷つけるなら、その集団自身の人間性も問われます。個人を消して共同体を大きくすることではなく、互いを人として扱える関係を作ることが中心にあります。
「私はある」の確かさと、「人になる」営み
「人は他者を通じて人となる」と聞くと、一人でいる私は不完全なのか、と気になるかもしれません。ここでデカルトの「我思う、ゆえに我あり」を並べてみると、「私が存在すること」と「人間らしく生きること」を分けて考えられます。比較の入口は、自分が人としてあることを、何に支えられたものとして理解するか、という問いです。
デカルトが探したのは、どれほど疑っても崩れない知識の出発点でした。夢の中では、そこにない部屋を本物だと思うことがあります。それなら、いま見える世界や自分の身体についても、いったん疑ってみる。さらに、何者かが自分を徹底して欺いていると想定します。それでも、欺かれ、疑っている間、その私が存在することまでは取り消せません。『省察』第二省察では、こうして「私はある、私は存在する」という確かさへ到達します。
この議論の面白さは、疑いが確実性を壊すだけでなく、確実なものを見つける働きもする点です。ここで確かめられるのは、考えている私の存在です。他者の助けを借りずに生きるべきだ、という生活の規範は、この推論からは出てきません。
ウブントゥの倫理的な読みでは、その私が人々とどう生きるかへ目を向けます。たとえば、困っている人の話を聞き、自分の都合を調整して助ける。その行為は、相手の生活を支えるとともに、自分がどんな人間であるかを形づくります。メッツが論じる共同性も、共に行動することと、相手の幸福を気にかけて支えることの結びつきです。
こうして格言へ戻ると、「人となる」は、誰かに認められるまで存在できないという意味ではなく、互いへの振る舞いを通して人間性を育てる課題として読めます。デカルトの確実性をめぐる探究と並べたことで、存在の確認と生き方の形成という、「私」を考える二つの仕事が見えてきます。
現代への応用(本記事での解釈)
孤独を感じたとき、「自分が弱いからだ」とすぐに判決を下す前に、関係の側を見てみます。
- 安心して助けを求められる相手はいるか。
- 自分の役割ではなく、自分自身を見てもらえる場があるか。
- 自分は誰かを、役割や便利さだけで見ていないか。
これはウブントゥの格言に書かれた三つの質問ではありません。関係の中で人間性が育つという議論から作った、本記事の応用です。
次章では、日常の挨拶 Sawubona を手がかりに、「人を見る」とは何をすることなのかを考えます。
参照資料
- Christian B. N. Gade, “The Historical Development of the Written Discourses on Ubuntu,” South African Journal of Philosophy, 30(3), 2011, pp. 303–329.
- John S. Mbiti, African Religions and Philosophy, 2nd ed., 1990, p. 106.
- Mogobe B. Ramose, African Philosophy through Ubuntu, 1999.
- Thaddeus Metz, “Toward an African Moral Theory,” The Journal of Political Philosophy, 15(3), 2007, pp. 321–341.
- René Descartes, Discourse on the Method, Part IV; Meditations on First Philosophy, Meditation II(Haldane–Ross訳).
- Thaddeus Metz, “Ubuntu as a Moral Theory and Human Rights in South Africa,” 2011, §3.