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知識を深める連載記事
バガヴァッド・ギーターを学ぶ 第一部
戦場で、なぜアルジュナは弓を置いたのか
親族への情、罪への恐れ、戦士の義務、社会秩序への責任が衝突するアルジュナの危機から、『バガヴァッド・ギーター』の問いを読み始めます。
「果実を求めるな」は、何を禁じているのか
第2章47節を起点に、行為・果実・不作為・供犠・カルマの束縛を読み、ストア派との類似と差異を整理します。
無執着は、なぜ無関心ではないのか
世界を維持する行為、行為の中の不作為、慈悲という原典の論理から、無執着と他者への応答が両立する条件を考えます。
自分のダルマは、自由か拘束か
自分の性質や社会的役割に応じた固有の務めと、社会秩序との緊張を原典から読み、役割を引き受け直す条件を考えます。
バガヴァッド・ギーターを学ぶ 第二部
心の状態は、私そのものなのか——三つのグナと束縛
サットヴァ、ラジャス、タマスという三つのグナが、人をどう動かし、何によって束縛するのかを読みます。
「私がした」とは、どういうことか——行為とアハンカーラ
行為はグナによってなされるのに、なぜ人は『私が行為者だ』と思うのか。ギーター第3章27節から責任と自由を考えます。
知る者を、誰が知るのか——場・知識・信愛
身体という場、それを知る者、すべての場を知るクリシュナ。ギーター第12・13章から、知識とバクティの関係を読みます。
帰依は、戦場の問いを消すのか——『悲しむな』を読み直す
アルジュナの混乱、熟慮、クリシュナへの帰依、そして行為。ギーター終盤の言葉を、戦場の葛藤と対話の流れから読みます。
道教を学ぶ 第一部
頑張ることに疲れたとき、老荘思想が教えてくれること
役に立つことを求められる時代に、『老子』『荘子』を原文に戻って読む。無用、無為、逍遥遊を、現代の自己啓発ではなく価値と視点を問い直す思想としてたどります。
斧を逃れた木は、本当に無用だったのか
『荘子』の樗の大樹と『老子』第11章を手がかりに、無用と無、用途と空所を区別して読みます。
美と醜は、どこで分かれるのか
『老子』第2章を手がかりに、美醜・善悪・難易といった対概念がどう生まれるかを読みます。
無為とは、動かないことではなく、動かしすぎないこと
『老子』の無為を、欲望、統治、自化、水と柔弱の文脈から読み直します。
鵬と胡蝶は、同じ世界を見ているか
『荘子』の鵬と胡蝶の夢を通じて、視点の限界、区別、物化を読みます。
道教を学ぶ 第二部
分からないと言える知——区別と言葉は、何を見えなくするのか
王倪、朝三暮四、渾沌、輪扁の寓話から、知識を捨てるのではなく、判断と言葉が届く範囲を見極める知性を考えます。
無為は、少ない努力で成果を出す技術なのか
『老子』の無為、庖丁解牛と蝉捕りの熟練、現代心理学のフローを分けて読み、力を加えることと条件に応じることの違いを考えます。
変わり続ける世界で、何を同じものと呼ぶのか
『老子』第42章、荘子の妻の死、列子御風の寓話から、変化を受け入れることと、悲しみや依存を消すことの違いを読みます。
空いているから、働ける——『老子』の「無」と現代の余白
車輪、器、部屋の比喩から、有るものと無いところが一緒に働く構造を読み、時間や制度の余白へ慎重に応用します。
初期仏教を学ぶ 第一部
苦は、痛みと同じものなのか
初期仏教を、心を落ち着かせる技法ではなく、苦がどこで生まれ、どこで増えるかを精密に見分ける思想として読み始める。
ブッダの診断は、なぜ四つに分かれるのか
四聖諦を四つの標語ではなく、苦を理解し、原因を捨て、止滅を実現し、道を育てるための精密な診断法として読む。
苦は、どこで増幅されるのか
縁起を単純な悪循環ではなく、接触・感受・渇愛・執着を含む条件の分析として読み、反応が固定される局面を探る。
「私」は、なぜ思いどおりにならないのか
無我を自己否定や大きな自己への合一ではなく、五蘊を私・私のものとして保持できるかを問い直す実践的な論証として読む。
気づくだけで、道を歩んだことになるのか
サティを一時停止の技法へ縮めず、正見・倫理・努力・集中と結び付いた八正道全体の中で読み直す。
涅槃は、何が消えた状態なのか
涅槃を虚無や心の性能向上としてではなく、渇愛と貪・瞋・痴に支配される条件系列の終息として、初期経典の比喩から考える。
古い教えを、現在へどう運ぶのか
初期経典、後代の仏教伝統、現代への応用を区別しながら、四諦・縁起・無我・八正道を生活へ翻訳する。
初期仏教を学ぶ 第二部
止まるとは、過去が消えることではない――アングリマーラの転回
アングリマーラ経を読み、加害を止めること、修行によって変わること、過去の行為の結果を引き受けることの関係を考えます。
独り歩め、ただし賢い友がいるなら共に――犀角経の孤独
『スッタニパータ』の犀角経と長老たちの詩を読み、孤独、善友、執着からの自由がどのように結ばれているかを考えます。
マーラの声は、誰の声なのか――十の軍勢とソーマーの応答
『スッタニパータ』の精勤経とソーマー経を読み、欲望、恐れ、疑い、名誉欲を名指すことと、それでも残る行為の責任を考えます。
生まれではなく行為とは、能力主義なのか――バラモンを定義し直す
ヴァサラ経、ヴァーセッタ経、耕作者との対話を読み、生まれによる身分を退けた先に、どのような行為の基準が置かれたかを考えます。
女性たちの詩は、何からの自由を語るのか――臼と杵、水と灯、老いる身体
『テーリーガーター』のムッター、パターチャーラー、アンバパーリーの詩を、後代の伝記と区別しながら読みます。
啓蒙思想を学ぶ 第一部
自分で考える勇気とは何か
啓蒙思想を、自分で考える勇気と、それを支える公共的な場の両面から読み直す。
理性は万能ではない。だからこそ、鍛えなければならない
理性を個人の才能ではなく、経験・制作・編集・出版・批判によって鍛えられる営みとして読む。
自由とは、好きにすることではなく、支配されないことである
ロックの自然権論を、王権への反論と、普遍的自由が実際には誰に届いたのかという問いから読む。
権力を縛るために、制度が必要になる
権力分立を三つの箱の暗記ではなく、権力の動きを別の権力が止められる配置として読む。
寛容とは、相手を好きになることではない
ジャン・カラス事件から、寛容を偏見が司法の処罰へ変わるのを点検する公共条件として考える。
社会契約は、自由を失う話なのか
啓蒙思想を学ぶ 第一部 第6章
ジャイナ教を学ぶ 第一部
正しい見方だけでは、なぜ自由になれないのか
正しい見方・知識・行為という三宝から、ジャイナ教が認識の慎重さを解脱の道へどう位置づけたかを読み解きます。
同じものを見ているのに、なぜ話がずれるのか
プラマーナとナヤの区別から、部分的な観点が単なる個人の意見ではない理由を考えます。
変わり続けるものを、同じものと呼べるのか
生起・消滅・持続を同時に考えるジャイナ教の存在論から、アネーカーンタヴァーダの深さを読みます。
「ある観点から」は、逃げ道なのか
サッドヴァーダと七重判断から、断言を弱めるのではなく条件を精密にするジャイナ教の論理を読みます。
すぐに断定しない人は、いつも正しいのか
カーネマンの二重過程論とジャイナ教の認識論を比べ、慎重に考えることの力と限界を見ます。
相手を言い負かすことは、暴力なのか
ジャイナ教のアヒンサーを生命・情念・不注意から読み、言葉の加害へ応用できる範囲を考えます。
多面性は、何でも正しいことにするのか
アネーカーンタヴァーダへの相対主義批判を通して、観点の多さと判断の基準が両立する理由を考えます。
真理を諦めず、独占を手放せるか
三宝、ナヤ、アネーカーンタヴァーダ、サッドヴァーダ、アヒンサーを一つの道として振り返ります。
ジャイナ教を学ぶ 第二部
知っただけでは、なぜ自由になれないのか
正しい信仰・知識・行為という三つの道から、ジャイナ教が知ることと生きることを切り離さない理由を読み解きます。
怒りが消えたあと、何が魂に残るのか
ジャイナ教のカルマを、流入・束縛・遮断・脱落という過程から読み、ドーキンスの遺伝子論との違いを考えます。
世界には、動くための場所と止まるための場所がある
魂、物質、運動と静止の媒体、空間、時間という六つの実体から、ジャイナ教独自の宇宙像を読み解きます。
空腹に耐えれば、自由になれるのか
外的・内的な十二のタパスを読み、ジャイナ教の修行をフーコーの規律と自己形成の議論から考えます。
見えない命を、どうすれば傷つけずに歩けるのか
ジャイナ教のアヒンサーを、不注意・情念・誓戒の関係から読み、レヴィナスの顔の倫理との違いを考えます。
生命の境界を、目に見える大きさで決めてよいのか
一感覚の生命とニゴーダを手がかりに、ジャイナ教の生命観と現代の環境倫理が重なる問い、異なる目的を読み解きます。
流れを止めることと、積もったものを落とすこと
サンヴァラ、ニルジャラー、モークシャの違いをたどり、ジャイナ教の解放とスピノザの自由を比較します。
自由になるとは、関係を断つことなのか
ジャイナ教第二部のカルマ、六実体、タパス、アヒンサー、解脱を一つの行程として振り返ります。
中論を学ぶ 第一部
原因は、どこから生まれるのか——『中論』が開く四つの問い
結果は原因の中にあったのか、外から来たのか。『中論』第1章の四つの検討から、自性と縁起の違いを読み解きます。
空は因果を壊すのか——四聖諦を守る無自性
すべてが空なら、行為も苦も解放も成り立たないのか。『中論』第24章の反論と応答から、空と因果の関係を読みます。
ことばを使いながら、ことばに捕まらない——二諦と空への執着
日常の言葉を捨てずに、自性を置く見方をどう離れるか。『中論』第24章の二諦と、空を新たな実体にする危険を読みます。
輪廻と涅槃のあいだに、何があるのか
『中論』第25章の「輪廻と涅槃に隔たりはない」を、苦と解放を同一視せず、自性のない二つとして読み直します。
中論を学ぶ 第二部
空を語る言葉は、どこに立つのか——二諦を二つの世界にしない
『中論』第24章8〜10偈を手がかりに、世俗諦と勝義諦を、日常世界と別世界ではなく、教えを語り理解するための区別として読みます。
「私」は、身体と同じなのか、別なのか——第18章の自己論
『中論』第18章1〜6偈を手がかりに、自己を五蘊と同じもの、または別のものと考えたときに生じる難しさを読みます。
中論は、何も主張しないのか——帰謬論証と後代の論争
『中論』の帰謬的な論証を原典から読み、バーヴィヴェーカとチャンドラキールティの後代の論争を区別して整理します。
空は、なぜ慈悲と結びつくのか——後代の中観が開いた問い
『中論』の自性批判と、チャンドラキールティが展開した三つの慈悲を区別し、空と他者への応答がどう結びつくかを考えます。
墨子を学ぶ 第一部
兼愛は、家族を愛するなという命令か
『墨子』の兼愛と別愛から、身近な人を大切にしながら、他者を配慮の外へ追い出さない倫理を考えます。
交相利は、なぜ約束だけでは続かないのか
『墨子』の交相利と反復ゲームを分けて読み、互いを利する関係が続く条件と、その限界を考えます。
遠い他者を、なぜ自分の問題として扱うのか
墨家の兼愛とピーター・シンガーの援助義務を比較し、距離や所属が配慮を弱める理由と両思想の違いを考えます。
侵略を止めるには、説得と防衛のどちらが要るのか
『墨子』の非攻、公輸の物語、守城篇を読み分け、侵略を不義とする議論と、侵略を断念させる備えの関係を考えます。
墨子を学ぶ 第二部
「正しさ」が十通りある社会を、どう一つにするのか
『墨子』の尚同と天志から、共通の判断基準が争いを収める力と、異論を押さえ込む危険を考えます。
誰も見ていない場所で、なぜ善く振る舞うのか
『墨子』の明鬼を、鬼神の実在論と社会的な効用の両面から読み、近代のパノプティコンと比較します。
努力しても同じなら、なぜ働くのか
『墨子』の非命と三表から、努力を無益にする宿命論への反論と、それを自己責任論へ変えない読み方を考えます。
朱子学を学ぶ 第一部
理と気は、なぜ分けても離せないのか――朱子学の世界の見方
朱熹の原文から、理と気を二つの独立物ではなく、区別しながら切り離せない関係として読み直します。
性即理は、なぜ修養を不要にしないのか――本性と学びのあいだ
『中庸章句』の「性即理」を起点に、本性の善さと現実の判断を同一視せず、学びと修養が必要になる理由を考えます。
善を知る人が、なぜ判断を誤るのか――本然の性・気質の性・心統性情
本然の性と気質の性を二つの別物にせず、性・情・心の動きから、人が迷いながら学び直せる構造を読み解きます。
居敬と窮理は、どう互いを深めるのか――目の前の事から判断を磨く
『朱子語類』と『大学章句』から、居敬・窮理・格物致知を、内面と外界を往復する一つの修養として読みます。
なぜ内にある理を、事に即して学ぶのか――朱子学と陽明学の分岐
朱子学第一部を総括し、豁然貫通と知行の関係を原典から確認しながら、陽明学との違いを勝敗ではなく修養の組み立て方として読みます。
朱子学を学ぶ 第二部
礼は、なぜ細かな所作を必要とするのか
朱熹の『家礼』を手がかりに、礼が心を表すだけでなく、関係と心を形づくる仕組みを考えます。
自分を修めれば、天下は治まるのか
『大学』の八条目を、成功の階段ではなく、修身と政治を結ぶ論理とその緊張として読みます。
感情は、理と気のどちらから動くのか
李退渓と奇高峰の四端七情論争から、善なる本性と複雑な感情を同時に説明する難しさを読みます。
思想は、別の土地で何に変わるのか
山崎闇斎と荻生徂徠を通じて、朱子学が日本で受け継がれ、組み替えられ、批判された過程をたどります。
儒教は、近代化を阻んだのか
ウェーバーの中国論と戦後東アジアの成長を、文化の勝敗ではなく、価値と制度の因果を問う論争として読みます。
形式は、いつ自由を支え、いつ人を縛るのか
礼を身につけることと、カントの自律が問う「従う理由」を手がかりに、形式が行為と自由を支える条件を考えます。
クルアーンを学ぶ 第一部
世界は、ただの背景なのか――「しるし」を読むということ
雨、昼夜、生きもの。クルアーンが身近な現象を「しるし」と呼ぶとき、読者に何を求めているのかを読み解きます。
考えることは、頭の中だけで起きるのか――世界を読む知性
言語、睡眠、風、雨。クルアーン第30章のしるしと、アンディ・クラークの環境的足場を比較します。
待つことは、何もしないことなのか――サブルの時間
喪失や不確実さの中で、行為の向きを保つサブルとは何か。反脆弱性との違いから読み解きます。
富は、誰のものとして流れるのか――取引・利子・施し
クルアーンが富の量ではなく、取引、債務、施し、配分の関係をどのように問うのかを読み解きます。
自由は、誰にも従わないことなのか――フィトラ・信託・責任
自分で決めることと、自由であることは同じなのか。クルアーンのフィトラ、信託、個人責任をカントの自律と比較します。
クルアーンを学ぶ 第二部
忘れていた記憶なのか――第一の契約と、呼びかけに答える責任
クルアーン7章172〜173節の第一の契約を読み、フィトラ、想起、責任の関係をプラトンの想起説と比較します。
ジハードは、一つの意味に閉じられるのか
「聖戦」という訳だけでも、「内面の努力」という説明だけでも捉えきれないジハードの意味を、クルアーンの異なる文脈から読みます。
神の道は、誰の法になるのか――シャリーアとフィクフ
クルアーンの生活規範が、スンナ、法学、国家法へ展開する過程をたどり、シャリーアとフィクフを区別します。
同じ預言者を語りながら、なぜ同じ宗教にならないのか
クルアーンがムーサーやイーサー、先行する啓典をどう位置づけるかを読み、三宗教の連続性と相違を考えます。
赦す前に、ユースフは何を見抜いたのか――最良の物語
兄弟に捨てられたユースフが、権力を得て再会し、赦しへ進むまでを、知ることと力の変化から読みます。
誰も肩代わりできない――復活・記録・慈悲
クルアーンの復活、行為の記録、身体の証言、個人責任を読み、来世が現世の生をどう照らすかを考えます。
セリティを学ぶ 第一部
影だけでは捉えられない尊厳:セリティとは何か
北ソトのセリティを、影という語義だけでなく、人格・尊厳・知性・他者との関係が重なる概念として読み解きます。
セリティの三つの顔:徳・祖先・不当な力
Ratheteが設けたカテゴリーA・B・Cから、セリティの倫理、祖先との関係、他者を害する力の緊張を読み解きます。
尊厳の物差しは変わる:男性像と女性像のずれ
Ratheteの質問紙調査から、セリティの基準が社会変化とともに更新される過程と、ジェンダーによって異なる変化を読みます。
誰がセリティを測るのか:尊厳を認める側の責任
共同体が育てる尊厳と、共同体の基準が生む排除を同時に見ながら、セリティを現代へ応用するための読み方を考えます。
セリティを学ぶ 第二部
子どもにもセリティはある:尊厳と成長の二重構造
人は生まれたときから尊厳を持つのか、それとも共同体の中で人格を認められて初めて『人』になるのか。北ソトのセリティが抱える二つの水準を、子どもをめぐる記述から考えます。
通過儀礼は、人を大人にするのか
北ソトの通過儀礼は、身体への処置だけでなく、知識・徳・共同体からの承認を含んでいました。何を残し、何を変えるべきかという論争から、成人になることの意味を考えます。
よい指導者は、何をもたらす人か
地位や威厳ではなく、人びとに何をもたらしたかで指導者を測る視点を、Ratheteが紹介するmotswadintleと首長のセリティから考えます。
共同体の中で、個人は消えるのか
人は関係の中で育つ。しかし共同体が個人を作ると言い切れば、異議や固有性まで吸収されかねません。Ratheteが紹介するムビティ批判から、『私たち』と『私』の関係を考えます。
伝統を守るとは、形を変えないことか
親切や知恵は残り、通過儀礼やジェンダー役割への評価は揺れる。Ratheteの調査の限界も踏まえながら、伝統を受け継ぐための批判と更新を考えます。
ソボールノスチを学ぶ 第一部
つながっていれば、共同体なのか:ホミャコフの教会論
ソボールノスチを現代の交流術へ縮めず、ホミャコフの教会論にある恩寵・自由・一致の関係から読み直します。
自由と一致は、同時に守れるか
ホミャコフが教会の自由と一致をどう結んだかを読み、その理想を現代の共同体へ移すときに必要な限界も考えます。
友情は、真理の見え方を変えるか:フロレンスキー
フロレンスキー『真理の柱と支え』の友情論を、単純な合意説へ縮めず、自己閉鎖を破るキリスト教的な関係として読みます。
孤独を埋めれば、共同体になるのか:ユングとアーレント
ユングの集合的無意識と大衆社会論、アーレントの孤独論をソボールノスチと区別しながら、個人を消さない共同性を考えます。
ソボールノスチを学ぶ 第二部
一つになると、違いは消えるのか:ソロヴィヨフの全一性
ソロヴィヨフの全一性をキリスト教・ソフィア・普遍教会の文脈から読み、差異を消す統一と差異を含む統一を分けて考えます。
自由は、ひとりになることなのか:ベルジャーエフの根源的自由
ベルジャーエフの自由・客体化・創造を手がかりに、孤独を美化せず、人格が役割に閉じ込められる仕組みを考えます。
理解し合えば、一つになれるのか:ブーバーとレヴィナス
ブーバーの我―汝とレヴィナスの他者論を分けて読み、理解や共感で他者を包み込まない関係を考えます。
共同性は、何を守れたときに希望になるのか
ソロヴィヨフとテイヤールの歴史への希望を比較し、全一性・自由・他者性を壊さない共同性の条件を考えます。
ウブントゥを学ぶ 第一部
「人は他者を通じて人となる」——ウブントゥを一つの標語にしない
ウブントゥという語の歴史と格言をたどり、関係の中で人間になるとは何を意味するのかを考えます。
「あなたを見る」とは何をすることか——サウボナと承認の倫理
isiZuluの挨拶サウボナを、日常の用法と哲学的解釈に分け、人を役割へ縮めない承認について考えます。
牛を貸すことは、贈与なのか——ウクシサが残す関係と争い
南アフリカの牛の貸借ウクシサを、支え合いの美談だけでなく、土地・相続・植民地支配の歴史から読み直します。
「会社の方針です」で責任は消えるのか——役割の外に人を見る
アーレントの思考と判断を手がかりに、組織の役割が具体的な被害を隠すときの責任をウブントゥと考えます。
死刑をめぐる法廷で、ウブントゥは何を語ったのか
マクワニャネ判決と真実和解委員会をたどり、生命・尊厳・責任・賠償が交差する正義を考えます。
共同体は、いつ人を傷つけるのか——ウブントゥの影を読む
連帯と共同体が同調圧力へ変わる条件を、個人の権利、ジェンダー、異論の保護から検討します。
全員一致は、本当に全員の声なのか——インダバと対話の条件
インダバを理想化された全会一致の制度から解放し、参加・権力・異論・決定を支える対話の条件を考えます。
受け継ぐのは、答えではなく問いである——ウブントゥと教育
南アフリカの教育政策と第一部の議論を結び、尊厳、差異、責任を次の世代へ渡す条件を考えます。
ウブントゥを学ぶ 第二部
相手を認めることは、相手を分かったことなのか
サウボナと承認論を手がかりに、他者を役割へ縮めず、同時に分かったつもりにもならない関係を考えます。
真実を語れば、和解は始まるのか
南アフリカの真実和解委員会を、証言・条件付き恩赦・賠償という異なる仕事に分け、修復的な正義の難しさを考えます。
助けた後に、どんな関係が残るのか
牛の貸借ウクシサとケイパビリティの考えを手がかりに、支援が選択肢を広げる条件と、依存や支配へ変わる条件を考えます。
許さない自由を、和解は守れるか
アリ・マズルイ、南アフリカの移行期正義、アーレントの赦し論を区別し、和解が被害者の義務にならない条件を考えます。
全員が賛成した会議で、誰の声が消えたのか
インダバを固定的な全会一致の制度としてではなく、参加・発言・決定権・見直し可能性から対話を点検する入口として読みます。
つながりを、正義に変えるには
承認・資源・発言権・修復という四つの条件から、ウブントゥの関係倫理を現代の制度へつなぐ方法を考えます。
ウパニシャッドを学ぶ 第一部
塩が見えなくても、なぜ水は塩辛いのか
父が息子にさせた小さな実験から、「汝はそれなり」と自己を知ることの意味を読む。
知る者を、どうやって知るのか
マイトレーイーの切実な問いと「ネーティ・ネーティ」から、自己を対象として掴むことの限界を読む。
川は海に入ると、どこへ消えるのか
土・蜜・川という三つの比喩から、名前と形の多様さ、その根拠を考える。
眠っている間、私はどこにいるのか
覚醒・夢・深い眠りとOMの対応から、マーンドゥーキヤ・ウパニシャッドが問う自己を読む。
食べたものが、なぜ「私」になるのか
ブリグの探究をたどり、食・息・心・理解・歓喜という五つの「より内なる自己」を読む。
何を知れば、すべてが知られるのか
高い知と低い知、脆い舟、弓矢の比喩から、知識を所有することと知によって変わることの差を読む。
ウパニシャッドを学ぶ 第二部
死神の前で、何を選ぶのか
ナチケータスとガールギーの問答から、答えより先に問いの代価を引き受ける姿勢を読み解きます。
眠っている間、自己はどう語られるのか
『マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド』の覚醒・夢・深睡眠・第四を、現代の意識研究と区別しながら読む。
言葉は世界を切り分けるが、世界を壊すとは限らない
ネーティ・ネーティとボームのレオモードを比べ、言葉が関係を見せる働きと固定する働きを考える。
意識は「一つ」と数えられるのか
ウパニシャッドの非二元的な問いとシュレーディンガーの意識論を、証明と哲学的推論を分けながら読む。
一を知れば、何が知られるのか
土と器の比喩を原典の問いへ戻し、ルーマンの二階の観察と区別しながら情報過多を考える。
役に立たないものは、価値がないのか
荘子の無用の木と『タイッティリーヤ・ウパニシャッド』の歓喜を、違いを残したまま比較する。
「汝はそれなり」を、一行で終わらせない
塩、種、川などの比喩が反復される教育過程として「汝はそれなり」を読み、第二部の問いを総括する。
成唯識論を学ぶ 第一部
唯識は、世界を消す思想なのか
『成唯識論』の出発点を、世界を脳内映像へ変える議論ではなく、見る者と見られるものがどう成立するかを問う思想として読み直します。
なぜ、同じ反応を繰り返すのか——阿頼耶識と種子
阿頼耶識を記憶の倉庫や無意識と同一視せず、種子を保ちながら滝のように相続する働きとして読みます。
「これが私だ」は、どこから来るのか——末那識と四煩悩
末那識が阿頼耶識を対象にして『私』と捉える働きと、我癡・我見・我慢・我愛の四煩悩を原典に沿って読みます。
反応を変えるだけで、自由になれるのか——転依と情報環境
SNSの推薦を唯識そのものと見なさず、個人の反応とプラットフォームの設計を分けたうえで、『成唯識論』の転依を読みます。
成唯識論を学ぶ 第二部
なぜ「私」だけが傷ついたように感じるのか:末那識と四煩悩
末那識に伴う我痴・我見・我慢・我愛を、『成唯識論』の記述から読み解きます。
蛇が消えたあと、何が残るのか:三性説は三段階ではない
遍計所執性・依他起性・円成実性の関係を、蛇と縄の比喩から丁寧に読み解きます。
認識が変わるとは、何が転じることなのか:転依と四智
一時的な気分の変化と転依を区別し、四智が示す認識と行為の変容を読み解きます。
心を観察すれば、情報環境は変わるのか
画面の情報を選ぶ仕組みと、それを「私の立場」として受け取る働きを読み解き、個人・設計・制度から応答を考えます。
陽明学を学ぶ 第一部
陽明学は「直感を信じろ」という思想ではない
王陽明の実践哲学を、心即理・良知・致良知・知行合一から読み解く。自分の確信を正義にするのではなく、知ることと行うことの分裂を問い直す思想への入口。
朱子学からの分岐:なぜ「心即理」が必要だったのか
朱熹と王陽明を、知識と行動の単純な対立にせず、格物・心即理・知行をめぐる共通の問いと異なる答えとして読み直す。
良知:すでに働いている道徳知
王陽明のいう良知を、静かな直感や万能の答えではなく、具体的な関係の中で働き、私意に遮られうる道徳的な知として読む。
致良知:良知を現実に届かせる
致良知を、心の中の納得を行動へ押し出す標語ではなく、具体的な事の中で私意を省察し、良知を尽くす修養として読み直す。
知行合一:知と行はどこで一つなのか
知行合一を行動礼賛から切り離し、知は行の始、行は知の成という王陽明の言葉から、道徳的な知と実践の相互性を読む。
陽明学の危うさ:良知は独善にもなる
良知を自分の確信と取り違える危険を、私意の障りと一念の発動という原典の問題から捉え、現代で必要な点検条件を考える。
現代の陽明学:情報ではなく、行為へ
陽明学を現代へ応用するとき、情報不足と責任回避をどう見分けるか。原典・記事の読解・現代の実践を分けながら、知と行の距離を問い直す。
陽明学を学ぶ 第二部
万物一体:心はどこまで広がるのか
『大学問』の孺子・鳥獣・草木・瓦石への応答から、万物一体を差異を消す一体感ではなく、一体の仁が現れる倫理として読む。
一体の仁と私欲:世界を細切れにするもの
『大学問』が語る私欲の覆いを手掛かりに、一体の仁が利害や保身によって見えなくなる仕組みを考える。
事上磨錬:修養は現実の中で行われる
『伝習録』の「人須在事上磨」を前後の問答から読み、事上磨錬を苦労礼賛ではなく、事に臨んで私欲を省く修養として捉える。
良知を社会へ届ける
『大学問』の明明徳と親民の関係を手掛かりに、良知を個人の感想で終わらせず、言葉・記録・役割・制度へ移す現代的な道筋を考える。
万物一体の危うさ
万物一体を善意による同化へ変えないために、原典の一体の仁と、現代的な補助線としての差異・距離・修正可能性を分けて考える。
現代の事上磨錬
事上磨錬と致良知を、メール・会議・家庭・社会の具体的な場面へ移す。小さな行為と制度的な対応を対立させず、今日の実践を考える。