理解し合えば、一つになれるのか:ブーバーとレヴィナス
ブーバーの我―汝とレヴィナスの他者論を分けて読み、理解や共感で他者を包み込まない関係を考えます。
相手を説明できたとき、関係は深まったのか
同僚を「慎重な人」、家族を「感情的な人」、顧客を「解約しそうな人」と分類すると、次の行動を決めやすくなります。説明は役に立ちます。それでも、説明が相手のすべてになった瞬間、その人は私の知識の中へ閉じ込められます。
全一性が「複数性を含む統一」を目指すなら、他者の違いをどう守るのでしょうか。この問いに、マルティン・ブーバーとエマニュエル・レヴィナスは異なる方向から切り込みました。
ブーバー:関係の中で「私」も変わる
ブーバーは『我と汝』で、人が世界へ向かう二つの根本語を示します。
- 我―それ(I–It):相手を経験し、整理し、利用できる対象として捉える関係
- 我―汝(I–Thou):相手を一つの対象へ縮めず、呼びかけと応答の中で向き合う関係
我―それは、悪い関係の名前ではありません。時刻表を調べ、病状を測り、仕事を分担するには、対象化が必要です。問題は、その見方だけで人を捉えきったと思うことです。
我―汝では、完成した二人が情報を交換するのではありません。相手へ「汝」と呼びかける関係の中で、「我」のあり方も変わります。ブーバーが重視したのは、個人の内面だけでなく、二者のあいだに生まれる出来事でした。
この関係を永続する高揚状態として保つことはできません。出会いは再び我―それの世界へ移ります。だからこそ、対象化をなくすより、相手が説明からこぼれ落ちる瞬間を何度も受け取り直すことが大切になります。
レヴィナス:他者は、私の理解を越えて要求する
レヴィナスの問いは、ブーバーの相互的な対話と同じではありません。『全体性と無限』で語られる他者の顔は、外見の特徴ではなく、相手を所有し、理解し、私の計画へ組み込もうとする力に抵抗する現れです。
他者は、私が十分に共感できてから責任を求めるのではありません。理解の手前で、傷つけるな、見捨てるなと迫ります。私が応答しても、相手を理解し尽くしたことにはなりません。
ここに、ブーバーとの大切な違いがあります。ブーバーは出会いの相互性と「あいだ」を照らします。レヴィナスは、応答が釣り合う前から私に課される責任を強くします。後者を前者の「次の段階」と並べると、この非対称性が消えてしまいます。
全一性に、二つの緊張を持ち込む
ソロヴィヨフは、複数性を排除しない統一を構想しました。ブーバーは、関係の中で人が新しくなる瞬間を示します。レヴィナスは、どれほど大きな統一の物語にも回収されない他者を守ります。
三者は、同じ答えを述べているわけではありません。むしろ、並べることで全一性の難しさが見えてきます。
つながりを深めたいという願いは、相手を理解し尽くしたいという欲望へ変わることがあります。共同性を語るなら、理解できた部分と、なお分からない相手を同時に残す必要があります。
現代への応用(本記事での解釈)
会話のあとで、「相手はこういう人だ」と結論を出す前に、二つを分けて書いてみます。
- 相手が実際に語ったこと
- 私が相手について推測したこと
この区別は、理解を諦めるためではありません。理解を続けながら、相手を自分の説明より大きな存在として扱うための余白です。