役に立たないものは、価値がないのか
荘子の無用の木と『タイッティリーヤ・ウパニシャッド』の歓喜を、違いを残したまま比較する。
成果がない一日は、空白なのか
一日を終えるとき、どれだけ進んだか、何を生み出したかで自分を測ることがあります。仕事では必要な尺度です。ところが、その尺度が生活全体へ広がると、休息、遊び、迷い、人と過ごす時間まで「成果のない時間」に見えてきます。
この問題へ、古代中国の『荘子』とインドの『タイッティリーヤ・ウパニシャッド』は異なる方向から近づきます。
荘子の木は、役に立たないから残った
『荘子』には、材木として使えないほど曲がり、こぶだらけの大樹が現れます。大工には価値がない。だから切られずに生き延び、人が木陰で休めるほど大きくなりました。
この逆説は、「何もしなくてよい」という教訓ではありません。誰にとって、何のために役立つのか。その評価軸が変われば、無用とされたものに別の生が開けると示します。
ブリグは、答えを一段ずつ更新する
『タイッティリーヤ』では、ブリグが父ヴァルナにブラフマンを尋ねます。父は完成した定義を渡さず、食、息、眼、耳、心、言葉を手がかりに探究するよう促します。
ブリグはまず食を根源だと考え、修行して問い直します。次に息、心、理解へ進み、最後にアーナンダへ向かいます。別の箇所では、食・息・心・理解・歓喜が後にパンチャ・コーシャと呼ばれる層として読まれました。
ここでいう歓喜は、気分のよさや仕事の達成感だけを指しません。存在を成り立たせる根拠を探る文脈に置かれています。「役に立てたから幸福だ」という条件つきの満足より深い問いです。
二つの思想を同じ答えにしない
荘子の木は、社会の評価から外れることで生を保つ逆説を語ります。タイッティリーヤは、存在の根拠を食から歓喜へ問い進めます。前者は有用性の評価軸をずらし、後者は自己とブラフマンの探究を深めます。
両者が同じ結論へ到達したわけではありません。それでも、価値を即座に成果へ換算する現代の癖を見直すとき、二つは違う角度から効いてきます。
現代への応用(本記事での解釈)
一日の記録を二列に分けます。
- 成果として数えられること
- 関係や回復を支えたが、成果には数えにくいこと
後者には、休んだこと、話を聞いたこと、考えがまとまらないまま歩いたことも入ります。すべてを肯定するためではなく、一つの尺度が価値を独占していないかを確かめるためです。
参考文献
- 『タイッティリーヤ・ウパニシャッド』第2章・第3章
- 『荘子』逍遥遊・人間世
最終章では、これまでの問いを「汝はそれなり」という一行へ押し込まず、その一行が生まれる学びの過程をたどります。