「汝はそれなり」を、一行で終わらせない
塩、種、川などの比喩が反復される教育過程として「汝はそれなり」を読み、第二部の問いを総括する。
有名な一行は、説明の終点ではなかった
「汝はそれなり」。サンスクリット語では tat tvam asi。ウパニシャッドを代表する言葉として、単独で引用されます。
一行だけを見ると、「あなたと宇宙は同じだ」という壮大な結論を宣言したように見えます。ところが『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』第6章では、この言葉は一度で理解される答えとして置かれていません。
父ウッダーラカは、学問を終えて帰った息子シュヴェータケートゥに、土、金、鉄、蜜、川、種、塩水などの例を次々に示します。そのたびに説明し、確かめ、「汝はそれなり」と繰り返します。
見えないことと、存在しないことを分ける
父は息子に、ニヤグローダ樹の実を割らせます。小さな種をさらに割っても、中には何も見えません。それでも、目の前の大樹はその見えないものから育ちました。
別の場面では塩を水に入れ、翌朝に取り出すよう命じます。塩の姿は見えません。けれども上、中、下のどこを味わっても塩辛い。見えなくなったことは、存在しなくなったことと同じではありません。
比喩の一つ一つが宇宙の仕組みを完全に証明するわけではありません。異なる経験を重ね、息子が「見える物だけを実在の全範囲とする」見方から離れるよう導きます。
第二部で見てきたのは、一つの答えではない
ナチケータスは、快いものに問いを奪われませんでした。ガールギーは、答えの鎖を先へ伸ばしました。『マーンドゥーキヤ』は、覚醒・夢・深睡眠と第四を通じて、自己を通常の認識区分で捉えきれるかを問いました。
土の比喩は名と形の根拠を問い、『タイッティリーヤ』のブリグは答えを得るたびに探究をやり直しました。これらは同時期の一人の著者が作った完成済みの体系ではありません。後代のアドヴァイタは諸テキストを精密に体系化しましたが、その体系をそのまま古い対話へ戻すと、声の違いが消えます。
第二部の結論は、すべてが同じ答えだったということではありません。問いが変わるたび、何を根拠に知ったと言えるのかも変わるということです。
現代思想との比較から残るもの
チャーマーズ、ボーム、シュレーディンガー、ルーマンは、ウパニシャッドの代弁者ではありません。それぞれ現代の問題から、主観的経験、言語の断片化、意識の単数性、観察の区別を論じました。
古典と現代思想を並べる面白さは、どちらかが相手を証明することではなく、片方だけでは見えにくい問いが浮かぶ点にあります。似ているところで橋を架け、違うところで立ち止まる。その往復が、古典を現在形で読む方法になります。
付録:総合図解
図解1 五つの原典は、何を問うたのか
図解2 第二部を貫く三つの問い方
図解3 覚醒・夢・深睡眠と第四
図解4 一つの教えが届くまで
最後に残す問い
いま強く信じている説明を一つ選び、三つだけ確かめます。
- その説明は、何をよく見せているか。
- その説明によって、何が背景へ退いているか。
- 別の比喩や経験を通しても、同じ理解に戻れるか。
「汝はそれなり」を覚えることより、そこへ至る問い方を受け継ぐこと。そのとき古典は、完成した答えの倉庫ではなく、考え直すための相手になります。
参考文献
- 『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』第6章第1節-第16節
- 『カッタ・ウパニシャッド』第1章・第2章
- 『ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド』第2章-第4章
- 『マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド』第1-12節
- 『タイッティリーヤ・ウパニシャッド』第2章・第3章
- David Bohm, Wholeness and the Implicate Order
- David J. Chalmers, “Facing Up to the Problem of Consciousness”
- Niklas Luhmann, “Observation of the First and of the Second Order”
- Erwin Schrodinger, Mind and Matter
- 『荘子』逍遥遊・人間世