共同体の中で、個人は消えるのか
人は関係の中で育つ。しかし共同体が個人を作ると言い切れば、異議や固有性まで吸収されかねません。Ratheteが紹介するムビティ批判から、『私たち』と『私』の関係を考えます。
「私たち」を大切にすれば、「私」は小さくなるのか
人は、一人で言葉を発明したわけではありません。名前を呼ばれ、世話をされ、誰かのやり方を真似し、注意され、認められながら、自分が何者かを学びます。
この事実から、「共同体が個人を作る」という考えが生まれます。
しかし、ここで一歩立ち止まる必要があります。共同体が人を育てるのなら、その共同体の決まりに反対する人は、未熟な人なのでしょうか。家族の期待を拒む人は、関係を壊す人なのでしょうか。
セリティを関係の哲学として読むとき、共同体の側にも問いを返さなければなりません。
「私たちがいる」は、複数の「私」を前提にする
Ratheteは論文の文献レビューで、ケニアの思想家John S. Mbitiをめぐる議論を取り上げます。ムビティは、個人が共同体の中で人になるという考えを強く示した思想家として知られています。
Ratheteが同意する批判は、共同体主義が個々の人間を個人として認めることまで否定してはならない、というものです。これは北ソトの人びとの総意を報告した箇所ではなく、Ratheteが先行研究を検討し、自分の立場を示した箇所です。
「私たちがいる」と言うためには、そこに複数の人がいる必要があります。その人びとは、同じ顔をした部品ではありません。異なる記憶、判断、身体、利害を持つ人が集まって、初めて「私たち」になります。
この指摘は、個人主義へ戻ろうという主張ではありません。共同体と個人のどちらを先に置くかという競争をやめ、両者が互いを必要としていることを確かめる議論です。
関係が人格を育てる。だから関係は批判できる
セリティは、他者との関係の中で認められ、強められます。親切や誠実さは、頭の中に置いておくだけでは人格になりません。誰かに向けて行い、その人が受け取ることで、初めて社会的な意味を持ちます。
しかし、関係によって育つことは、既存の関係に従い続けることを意味しません。
家族が女性だけに世話を求める。職場が若い人の異論を「経験不足」として退ける。地域が外から来た人を信用しない。こうした関係の中でも人格は評価されますが、その物差し自体が公正とは限りません。
むしろ、人が関係の中で傷つくからこそ、関係を批判し、作り変える個人の声が必要です。異議は共同体の反対語ではありません。共同体が誰かを見落としていることを知らせる働きにもなります。
孤独を、一つの文化で診断しない
現代の孤独を考えるとき、「つながりを増やせば解決する」と急ぎたくなります。けれど、孤独には、一人で過ごす時間が足りない苦しさもあれば、集団の中で自分の声を失う苦しさもあります。
セリティから受け取れるのは、共同体へ戻れば治るという処方箋ではありません。
自分の尊厳が、どの関係の中で認められているか。どの関係では、役割だけを求められているか。離れるべき関係と、結び直したい関係はどれか。そう問い分けるための視点です。
「私たち」と「私」は、どちらか一方を消して成立するものではありません。個人が共同体を作り、共同体が個人を育てる。その循環の中に、異議を唱え、基準を変える道も残しておく必要があります。
では、古くから受け継がれた基準は、どのように変えればよいのでしょうか。