斧を逃れた木は、本当に無用だったのか
『荘子』の樗の大樹と『老子』第11章を手がかりに、無用と無、用途と空所を区別して読みます。
斧を逃れた木は、本当に無用だったのか
曲がった大樹の下で眠る
『荘子』「逍遥遊」で、恵子は荘子へ不満を言います。自分の家には大きな木がある。しかし幹はふくらみ、枝は曲がりくねり、大工の墨縄や規矩に合わない。道端に立っていても、職人は見向きもしない。大きいのに、役に立たない木だ、と。
荘子の返答は、その木をまっすぐに矯正する提案ではありません。
「なぜ、何もない野に植え、そばを歩き、その下でゆったり寝ないのか。使い道がないなら、どうして困るのか。」
原文は、木を 樗 と呼びます。『荘子』「逍遥遊」で荘子が描くのは、規格外の木が「用途なし」という判定を受けた後に、別の場所と時間を得る場面です。切られて材木になる代わりに、人がその下で眠る場所になる。
ここで無用は、空っぽの無価値ではありません。既存の用途に回収されないために、別の生が開くことです。
有用であることは、いつも安全ではない
『荘子』「人間世」には、もっと冷たい一節があります。
山の木は自らを招いて切られ、油脂は自らを煎る。桂は食べられるから伐られ、漆は使えるから傷つけられる。人は有用の用を知って、無用の用を知らない。
ここで使われるのが、よく知られた 無用之用 です。原文は、有用性を美しい能力の話としてだけ扱いません。食べられる、使える、売れるという評価は、その対象を切り取り、採取し、消耗させる理由にもなる。
これは「役に立たない人ほど偉い」という新しい序列を作る話ではありません。そうすると、無用までまた一つの性能になります。荘子が揺らすのは、そもそも誰が何の用途を決めるのか、という場所です。
『老子』の「無」は、別の問題を開く
無用の用を『老子』の言葉だと思っている人も多いかもしれません。けれど、直接この表現を置くのは『荘子』です。『老子』第11章が語るのは、別種の「無」です。
車輪は三十本の輻で作られるが、中心の空所があるから車として働く。粘土で器を作るが、中が空いているから器として働く。壁に戸や窓を開けるから、部屋として使える。第11章は、物がある部分が利益を与え、空いている部分が働きを可能にすると述べます。
大樹の無用と、器の空所は同じ意味ではありません。それでも二つを並べると、私たちが「何もない」と急いで埋めてしまう余白に、別の働きがあることが見えてきます。
余白は、まだ役に立っていないのではない。すでにある用途とは別の働きを、待っているのかもしれません。
次章では、用途の判断よりさらに手前にある、美と醜、善と不善という名前の働きを見ます。