頑張ることに疲れたとき、老荘思想が教えてくれること
役に立つことを求められる時代に、『老子』『荘子』を原文に戻って読む。無用、無為、逍遥遊を、現代の自己啓発ではなく価値と視点を問い直す思想としてたどります。
役に立つとは、誰が決めるのか
一日の終わりに置かれる採点表
「今日は、何の役に立っただろう。」
仕事の成果。健康のための運動。将来に役立つ勉強。人脈になる会話。休息でさえ、明日の生産性のために最適化される。答えが出ない時間を、私たちはいつの間にか「無駄」と呼ぶようになりました。
この感覚は、努力を嫌う人だけの悩みではありません。むしろ、きちんと生きようとしてきた人ほど、役に立つことの物差しを深く内側へ入れています。自分の時間も、他人との関係も、ひとまず用途へ変換してからでなければ安心できない。
ここで一度、問いの向きを変えてみます。
役に立つかどうかは、物や人の中に初めから入っている性質でしょうか。あるいは、誰かが決めた用途に照らして与えられる判断でしょうか。
この問いを、二千年以上前の中国で執拗に動かした文章があります。『老子』と『荘子』です。前者は、欲望に駆動された統治や作為を疑い、後者は、役に立つ/立たない、是/非、大きい/小さいといった判断の足場を、寓話によってずらします。
第一部で読む範囲
「道教」は、後世の儀礼、共同体、神々、養生、修行を含む広大な伝統です。本記事ではその全体を一度に説明しません。まずは、その伝統と深く結びついてきた二つの古典、『老子』と『荘子』に焦点を絞ります。
これは、後世の道教を「別物」として切り捨てるためではありません。むしろ、二つの古典だけでも、同じ教義が静かに並んでいるわけではないからです。『老子』の無為には統治の問題があり、『荘子』の逍遥遊には、言葉や視点に閉じ込められないための奇妙な飛躍があります。
だから、この記事で「老子は」「荘子は」と書くときは、できるだけ作品と箇所を特定します。そして、現代の生活へ引き寄せるときは、それが本記事の読みであることを隠しません。
五つの場面を通る
この第一部では、五つの像を通ります。
- 曲がっていて大工に見向きもされない大樹。
- 車輪と器を働かせる、目に見えない空所。
- 美と醜、難と易が互いを生む関係。
- 低い場所を流れ、争わず、なお堅いものへ働きかける水。
- 九万里を飛ぶ鵬と、自分が蝶だったのかを問う荘周。
どれも、正しい生き方を一つ教えるための図ではありません。むしろ、私たちが当然だと思っていた評価の物差しを、一度手から離すための装置です。
「効率の国から亡命する」とは、責任や仕事を捨てることではありません。役に立つという言葉が、自分や他者をどのように扱っているかを見直すことです。
次章では、役に立たないからこそ斧を逃れる、一本の大樹の話から始めます。