道教を学ぶ 第一部
3章 / 全5

美と醜は、どこで分かれるのか

『老子』第2章を手がかりに、美醜・善悪・難易といった対概念がどう生まれるかを読みます。

nakano
5分で読了
Blog

美と醜は、どこで分かれるのか

美しいと言った瞬間に

同じ机でも、狭い部屋では大きく、広い部屋では小さく見えます。同じ仕事でも、昨日より早く終えれば易しかったと思い、他人と比べれば遅かったと思うかもしれません。

『老子』第2章は、こうした関係を短い連なりで示します。

天下が美を美と知れば、そこに醜が生じる。善を善と知れば、そこに不善が生じる。ゆえに、有と無、難と易、長と短、高と下、音と声、前と後は、互いに生じ、互いに形づくる。

原文の 有無相生、難易相成、長短相較、高下相傾 は、すべての区別が嘘だと言っているわけではありません。長さも高さも、私たちは実際に区別して暮らします。ただ、その判断を対象の中に永久に固定された本質だと思わないよう促しています。

美があるから醜が発明される、というより、美と醜は互いを参照することで輪郭を得る。そこへ難と易、前と後まで連なってくると、私たちが「当然」と呼ぶ評価は、独立した一点ではなく、関係の網の中にあると分かります。

価値をなくすのでなく、価値に居座らない

第2章は続けて、聖人は 無為之事 に処し、万物を生んでも所有せず、為しても恃まず、功が成ってもそこに居ない、と述べます。

この 生而不有、為而不恃、功成而弗居 は、「良いことをしてはいけない」という教えではありません。何かを生み、働き、成果を得たあとに、それを自分の所有や優越の証明として握り続けない態度です。

評価の物差しに苦しむとき、私たちはしばしば反対側へ振れます。自分を高く評価しようとする。しかし、評価を上げるゲームに残ったままでは、落ちる恐れも消えません。

ここから現代へ一歩だけ移してみます。自分を「成功」「失敗」「有能」「役立たず」と呼ぶ言葉が頭に浮かんだとき、それは世界の最終判定ではありません。ある比較の中で働き始めた名前です。

これは『老子』が「存在するだけで完全だ」と直接語った、という意味ではありません。その言葉は、原典から本記事が受け取る応答です。評価の外へ出るのではなく、評価を唯一の現実にしないための応答です。

名前の前に、関係を見る

たとえば、誰かの発言を「わがまま」と呼ぶ前に、その人がどの約束を拒んだのかを見る。自分を「遅れている」と呼ぶ前に、どの時計を基準にしたのかを見る。名前を禁止するのではなく、名前が作られた関係をたどる。

評価を消せなくても、評価の下敷きになっている比較は見直せます。

対概念がつくる評価の網

次章では、価値の判断をさらに政治と行為の問題へ移します。何かをよくしようとして、動かしすぎるとき、何が起きるのでしょうか。