ジャイナ教を学ぶ 第二部
6章 / 全8

生命の境界を、目に見える大きさで決めてよいのか

一感覚の生命とニゴーダを手がかりに、ジャイナ教の生命観と現代の環境倫理が重なる問い、異なる目的を読み解きます。

nakano
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ジャイナ教
ニゴーダ
環境倫理

動物を傷つけてはいけないと言われれば、多くの人は理由を想像できます。痛み、恐怖、仲間との関係があるからです。

では、土や水や火に宿る生命へ配慮せよと言われたら、どうでしょうか。

ジャイナ教が引く生命の境界は、現代の生物学的な分類と大きく異なります。その違いを「古代人は微生物を発見していた」と読み替える前に、どのような世界を見ていたのかを確かめます。

感覚の数で広がる生命の世界

ジャイナ教の生命分類では、触覚だけをもつ一感覚の生命から、触覚・味覚・嗅覚・視覚・聴覚をもつ五感覚の生命までが考えられます。土、水、火、風、植物に結びつく生命も、一感覚の存在として扱われます。

ここで「土そのものが人間のように考える」と理解するのは正確ではありません。ジャイナ教の文献は、土を身体とするジーヴァ、水を身体とするジーヴァという独自の存在論を置きます。現代科学の物質/生物の境界とは、分類の前提が違います。

ニゴーダは、後代のジャイナ宇宙論で語られる、きわめて微細で未発達な生命の状態です。一般に一感覚の植物的な生命に分類され、無数のジーヴァが共通の身体に関わると説明されます。

ニゴーダを「1ミリ以下の生物」や「古代に発見された微生物」と呼ぶと、かえって分かりにくくなります。大きさを測って定義する概念ではなく、魂の輪廻、身体、感覚、宇宙に存在する生命の総数を説明する宗教的宇宙論の一部だからです。

目に見える生命から一感覚の生命・ニゴーダへ広がる分類

ディープ・エコロジーと同じ地点なのか

アルネ・ネスは1973年の論文で、汚染や資源枯渇への短期的な対処だけでなく、人間と自然の関係そのものを問い直す「ディープ・エコロジー」を提起しました。後にまとめられた綱領では、人間以外の生命にも、人間にとって役立つかどうかを超えた価値があるとされます。

ジャイナ教の生命観と並べると、目に見える利益だけで他の生命の価値を決めないという共通の問いが見えます。けれども、両者の目的は同じではありません。

ディープ・エコロジーは、近代社会の大量消費、人口、産業、政策を含む環境危機へ応答する思想運動です。ジャイナ教のアヒンサーは、あらゆる加害をカルマと解脱の問題として捉える修行体系です。生態系全体の安定を優先する判断と、一つ一つのジーヴァへの加害を減らす判断は、場合によっては一致しません。

たとえば外来種を駆除して生態系を守る政策を考えるとき、現代の保全倫理は個体の死と生態系全体の損失を比較します。厳格なアヒンサーは、駆除という行為と行為者の情念を問題にします。何を守る単位とするかが異なるのです。

「先取り」より面白いこと

ジャイナ教が現代環境倫理を2500年前に完成させていた、と評価する必要はありません。現代科学も政策論も存在しない時代に、別の目的と存在論から、生命の範囲を徹底して広げたこと自体が驚きです。

ニゴーダは、現代生物学の正しさを証明する概念ではありません。むしろ、私たちが「配慮すべき生命」を、自分に見えるもの、痛みを想像しやすいもの、経済的に役立つものへ限っていないかを揺さぶります。

現代への応用(本記事での解釈)

見えない生命すべてを数える代わりに、自分の選択から見えなくなっている影響を一つたどります。

食卓の一品なら、生産された土地、水、殺虫剤、輸送、廃棄まで。電子機器なら、採掘、組立、電力、廃棄まで。完全な無害を宣言するためではなく、見える範囲を少し広げるためです。

ジャイナ教の生命観が現代人に渡すのは、万能の環境政策ではありません。「見えない」という事実を、「存在しない」という結論へ急いで変えない慎重さです。

参考文献

  • 『アーチャーラーンガ・スートラ』第1篇
  • ウマースヴァーティ『タットヴァールタ・スートラ』第2章・第7章
  • Padmanabh S. Jaini, The Jaina Path of Purification
  • Paul Dundas, The Jains
  • Arne Næss, "The Shallow and the Deep, Long-Range Ecology Movement"
  • Arne Næss, Ecology, Community and Lifestyle