流れを止めることと、積もったものを落とすこと
サンヴァラ、ニルジャラー、モークシャの違いをたどり、ジャイナ教の解放とスピノザの自由を比較します。
部屋への砂の流入を止めても、床に積もった砂は残ります。
窓を閉めることと、床を掃くことは別の仕事です。ジャイナ教は、魂を自由にする過程にも同じ区別を置きます。
新たなカルマの流入を止めるサンヴァラと、すでに束縛しているカルマを落とすニルジャラーです。
サンヴァラは、入口を閉じる
『タットヴァールタ・スートラ』第9章は、サンヴァラをカルマの流入を妨げることとして説明します。そのための実践には、心・言葉・身体の統御、歩行・発話・食事などの注意、誓戒、情念への耐忍、正しい行為が含まれます。
ここで止めようとしているのは、行為一般ではありません。怒り、慢心、欺き、貪り、不注意と結びつき、魂を新たに束縛する流れです。
ニルジャラーは、すでにあるカルマを落とす
カルマは、結果をもたらして成熟すれば自然に脱落すると考えられます。しかし、その間にも新しいカルマを結びつけていれば、輪廻は終わりません。
そこでタパスが、既存のカルマを脱落させる働きを担います。第9章3節は、タパスがニルジャラーだけでなくサンヴァラにも関わると述べます。外的・内的な修練は、新たな流入を抑えながら、すでにある束縛を弱めるのです。
第10章2節は、すべてのカルマの消滅をモークシャ(解脱)と定義します。解脱した魂は消えて宇宙と一つになるのではありません。身体とカルマから離れた個別のジーヴァとして、宇宙の上端にある解脱者の領域、シッダ・シラーに至るとされます。
スピノザの自由は、自然から抜け出すことではない
スピノザは『エチカ』で、自由なものを、他から強制されず、自らの本性の必然から存在し行為するものとして定義します。人間は完全に独立した存在ではありません。身体も感情も、自然全体の因果関係の中にあります。
『エチカ』第4部が「人間の隷属」と呼ぶのは、感情の力に翻弄され、より大きな因果を理解できない状態です。理解が深まれば、私たちは自然の外へ出るのではなく、自分を自然の一部としてより能動的に生きられるようになります。
この点で、スピノザとジャイナ教は「自由とは原因のない選択ではない」という問いを共有します。どちらも、何に動かされているかを知らない状態を自由とは考えません。
しかし、二つの自由は別の場所へ向かいます。
スピノザにとって、人間が自然の因果関係を離れることはありません。神すなわち自然の必然を理解し、その中で能動性を高めます。ジャイナ教では、魂と物質は別の実体であり、カルマ物質を完全に脱落させれば、魂は輪廻と身体から離れます。
スピノザの自由は、自然の必然を深く理解して生きること。ジャイナ教の解放は、カルマ物質との束縛そのものを終わらせることです。「同じ結論」ではなく、自由という言葉がどこまで違う世界を指しうるかを見せる比較です。
現代への応用(本記事での解釈)
日常の癖を変えるときにも、入口を閉じることと、積もったものを落とすことを分けられます。
通知を切ることは、新しい刺激の流入を減らします。しかし、すでに身についた「何度も画面を確かめる癖」は残ります。環境を変えるだけでなく、反応が弱まるまで別の行為を繰り返す時間が要ります。
これはニルジャラーを習慣形成へ言い換えたもので、解脱の教義そのものではありません。それでも、変化が起きないときに「意志が弱い」とだけ責めず、流入と蓄積を分けて考える助けになります。
参考文献
- ウマースヴァーティ『タットヴァールタ・スートラ』第9章1〜3節、第10章2節
- Nathmal Tatia, That Which Is: Tattvārtha Sūtra
- Benedict de Spinoza, Ethics, Parts I, IV, V
- Michael LeBuffe, From Bondage to Freedom: Spinoza on Human Excellence