遠い他者を、なぜ自分の問題として扱うのか
墨家の兼愛とピーター・シンガーの援助義務を比較し、距離や所属が配慮を弱める理由と両思想の違いを考えます。
駅で倒れた人を見れば、多くの人は足を止めます。けれども、画面の向こうで何万人が飢えていると聞いても、同じ強さでは動けません。
苦しみの大きさではなく、距離や顔の見えやすさが、私たちの反応を変えています。
身近に感じる人ほど気になることと、その人を優先してよいことは、どこまで重なるのでしょうか。『墨子』の兼愛を読み、続いて現代の哲学者ピーター・シンガーの援助論から、遠さを理由に助けなくてよいのかを考えます。
兼愛は、国境の外も「人の国」として見る
「兼愛中」は、他人の国を自国のように、他人の家を自家のように、他人の身体を自分の身体のように見ると述べます。
この順序は印象的です。兼愛は、個人の優しい気持ちだけを扱っていません。身体、家、国という異なる単位で、他者側の害を自分側と同じく数えるよう求めます。侵略戦争が兼愛の反対に置かれるのも、他国の生と利益を配慮の外へ追い出す行為だからです。
墨家の「天下の利」には、物質的な豊かさ、人口の維持、社会の秩序が含まれます。さらに、その基準は天の意志によって支えられます。兼愛は、個人の寄付だけで完結する倫理ではなく、政治と宗教を含む秩序の構想です。
池の子どもなら助けるのに、遠くの子どもならどうか
ピーター・シンガーは1972年の論文「飢餓、豊かさ、そして道徳」で、東ベンガルの難民が食料、住居、医療の不足によって苦しむ現実から議論を始めます。
彼の出発点は、食料や住居、医療の不足による苦しみと死は悪い、という判断です。そこへ、悪いことを防ぐ力があり、しかも同程度に道徳的に重要なものを犠牲にせずに済むなら、防ぐべきだ、という原則を加えます。
浅い池のそばを歩いていると、子どもが溺れています。池に入れば服は泥だらけになりますが、子どもを引き上げられます。この場面で、服を汚したくないから通り過ぎる、という判断には賛成しにくいでしょう。服の汚れと子どもの死では、犠牲の重さが釣り合わないからです。
シンガーは、その判断を遠くの飢餓へ向けます。目の前の子どもには気持ちが動き、名前も知らない遠方の人には動きにくい。けれども、気持ちの動き方だけで、救える命の重要さまで変わるでしょうか。援助を届ける手段があり、重大な害を防げるなら、遠さそのものは何もしない理由にならない、と論じるのです。距離によって救助の確かさや方法が変わることと、遠い人の命を軽く扱うことを、ここで分けます。
もう一つの逃げ道は、「ほかにも助けられる人がいる」という考えです。池の周囲に何人も立っていて、全員が見ているだけなら、自分も何もしなくてよいでしょうか。シンガーは、同じ立場の人が多いという事実だけでは、自分の義務は薄まらないと考えます。ほかの人が実際に助け、必要が満たされるなら、自分に必要な行為は変わります。しかし、誰かができることと、誰かがすでにしていることは別です。
援助を「立派な親切」から義務へ移す
この議論が厳しいのは、寄付する人を褒めるだけで終わらない点です。私たちはしばしば、援助を、すれば立派だがしなくても責められない慈善として扱います。ところが、池で子どもを助けるべき理由を受け入れるなら、遠方の重大な害を防げる場合にも、その行為を単なる好意の範囲へ置けるかが問われます。援助をしないまま楽しみに使うお金も、道徳と無関係な私事では済まなくなります。
論文は、財布の中だけで解決を考えているわけでもありません。シンガーは政府の援助不足を批判し、公的援助の増額を求めて議員へ働きかけたり、政治活動に参加したりすることも取り上げます。政府が担うべきだという主張を、現在できる援助を見送る口実にせず、苦しみを減らすために何が有効かを問います。
要求が生活のどこまで及ぶかは、読者に重く残ります。それでも、議論の入口はつかめます。相手への親しさではなく、防げる害と、それを防ぐために犠牲にするものを比べる。その順序に変えると、遠方の飢餓も、自分たちの行為を問う問題になります。以上は、シンガーの1972年論文の議論を要約したものです。
「他人の国を自国のように見る」を読み直す
シンガーの池の例を経て「兼愛中」に戻ると、他国を自国のように見るという言葉が、単に親しみを持とうという勧めよりも厳しく響きます。
視人之國若視其國。
他人の国を自国のように見る。――『墨子』「兼愛中」(本記事訳)
自国の子どもが飢えることは重大なのに、国境の向こうなら数えなくてよいのか。このように問いを置くと、距離や所属だけを理由に他者の害を軽くしないという、両者を結ぶ着眼が具体的になります。
シンガーは、防げる苦しみと、それを防ぐための犠牲から援助義務を論じます。「兼愛中」は、諸侯が相愛すれば野戦をしないと述べ、相互の侵害を止める政治へ議論を進めます。墨家の構想では、天下の富と治や天の意志も、その配慮を支えています。
「視る」とは、国境の向こうへ好意を送るだけでなく、国として何をしてよいかを判断し直すことだと読めます。自国の豊かさを増やす計画でも、そのために他国の暮らしを壊すなら、相手の損失を同じ判断の中へ戻さなければならない。兼愛のこの一節は、配慮の広さを、侵害を思いとどまる行為へ結び付けています。
注意は、誰へ配られているか
現代の情報環境では、遠さは距離だけで決まりません。推薦欄に繰り返し現れる人は、遠くにいても身近に感じられます。反対に、同じ町に暮らす人でも、画面に現れなければ存在を忘れます。
推薦システムが人の心を一方的に操るわけではありません。利用者の選択、友人関係、広告、集団の規範も注意の向きを変えます。それでも、似た関心の情報が繰り返し届く環境では、「私たち」の外にいる人の害が見えにくくなることがあります。
兼愛の問いをこの環境へ移すと、誰の利益と損失が自分の視界へ入っているかを点検できます。たとえば、ある政策への反応を読むとき、賛成する知人の声に加えて、負担を受ける地域の人の声を探す。このように、注意を向ける範囲を変えることが、本記事で考える現代への応用です。
現代への応用(本記事での解釈)
大きな問題を見たとき、すぐに「全員を救えない」と閉じる前に、三つを分けます。
- いま具体的に防げる害は何か。
- 自分一人の行為で動く部分と、制度でなければ動かない部分は何か。
- 助ける相手の声を聞かず、効果の数字だけで決めていないか。
遠い他者を配慮することは、近い人への責任を消すことではありません。誰かが遠いという理由だけで、その人の重大な害を計算から消さないことです。
次章では、害が侵略戦争として迫る場面へ進みます。説得だけで止まらない暴力に、非攻はどう向き合ったのでしょうか。