ウパニシャッドを学ぶ 第二部
4章 / 全7

意識は「一つ」と数えられるのか

ウパニシャッドの非二元的な問いとシュレーディンガーの意識論を、証明と哲学的推論を分けながら読む。

nakano
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「意識が百個ある」と、誰が確かめるのか

教室に百人いれば、百人の身体があります。百の履歴があり、百の視点があります。では、意識も同じように百個あると言えるでしょうか。

日常では、それで困りません。互いの痛みを直接感じられない以上、別々の主体として扱う必要があります。けれども、自分が経験できる意識はいつも一人称です。他者の意識は、言葉や行動から推測します。

数えられる身体と、数える働きを担う意識。その二つを同じ方法で数えられるのかが問題になります。

ウパニシャッドが批判する「多だけを見る」視線

『カッタ・ウパニシャッド』は、ここにあるものと彼方にあるものの差だけを見る者を厳しく戒めます。『ブリハッドアーラニヤカ』も、見る者を見られる物の一つとして捉えられるのかと問い、自己を他の対象と同じ並べ方で扱うことを揺さぶります。

ただし、ここから「個人差は幻想だから無視してよい」とは言えません。本文の非二元的な問いは、身体や苦痛の違いを消す免許ではありません。何が究極的に分離しているのかを問うことと、現実の責任を区別する必要があります。

シュレーディンガーは物理学で証明したのか

量子力学の形成に関わったエルヴィン・シュレーディンガーは、『精神と物質』で、意識は複数形として経験されず、つねに単数として与えられるという考察を示しました。彼はインド思想にも強い関心をもち、意識の多元性をどう理解するかを哲学的に論じます。

面白いのは、他者の意識を否定した点ではありません。個々の意識を物体のように並べて数えるとき、その全体を眺める視点はどこにあるのかと問うた点です。

しかし、これは量子力学の実験結果から非二元性が証明された、という話ではありません。シュレーディンガーという物理学者が行った哲学的推論です。ウパニシャッドと似た問いが見えることと、両者が同じ根拠から同じ結論へ達したことは別です。

原典の問いとシュレーディンガーの推論を区別する図

他者への配慮は、自動的には導けない

「意識は根で一つなら、他者を傷つけることは自分を傷つけることだ」という説明には魅力があります。ただし、そこから具体的な倫理が論理だけで完成するわけではありません。暴力、権力差、同意、制度を考える仕事は残ります。

非二元性は倫理の代用品ではなく、他者を完全な別物として片づける見方を問い直す入口として読むほうが慎重です。

現代への応用(本記事での解釈)

意見が対立したとき、賛否の前に一つ確かめます。

私は相手の経験を、相手の言葉と行動からどこまで推測しているのか。

同一化せず、完全な他人としても切り捨てない。その間に、聞き直す余地が生まれます。

参考文献

  • 『カッタ・ウパニシャッド』第2章第1節
  • 『ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド』第4章第5節
  • Erwin Schrodinger, Mind and Matter

次章では、多くを知るために「一つを知る」とはどういうことかを考えます。