言葉は世界を切り分けるが、世界を壊すとは限らない
ネーティ・ネーティとボームのレオモードを比べ、言葉が関係を見せる働きと固定する働きを考える。
名づけた瞬間、何が見えなくなるのか
「あの人は冷たい」と一度言葉にすると、その人の短い返信も、会議での沈黙も、同じ性格の証拠に見えてきます。
言葉は経験を整理します。同時に、動いている関係を一つの名詞へ閉じ込めることがあります。
ここで大切なのは、言葉を敵にしないことです。「誰が、何をしたか」を言葉にしなければ、約束も責任も確かめられません。問題は、名づけたものを変わらない実体だと思い込むときに起こります。
ネーティ・ネーティは、何でも否定する呪文ではない
『ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド』には、自己や究極的なものを限定的な特徴で捉えきれないことを示す「ネーティ・ネーティ」が現れます。「これではない、これでもない」と訳される言葉です。
これは、事実を否定して沈黙すれば正しいという方法ではありません。目の前の相手や出来事を消すのでもありません。「これが全部だ」と思わせる限定を外し、対象化できないものを対象の一つにしてしまう誤りを避けます。
たとえば「私は失敗者だ」という文には、ある失敗の記憶が含まれています。その事実を消さずに、「失敗者」という名が自己の全範囲を占めることを退ける。そこに現代の読者が受け取れる一つの働きがあります。
ボームは、動詞から言葉を組み直そうとした
物理学者デヴィッド・ボームは、『全体性と内蔵秩序』で、言語の構造が世界を独立した物の集まりとして見せやすいと論じました。そこで、流れや生成を表しやすくする言語実験としてレオモード(rheomode)を提案します。
「観察者が対象を観察する」という文では、観察者と対象が先に独立して存在するように見えます。ボームは、観察という出来事の中で両者の関係が生じる側面を、動詞中心の表現で捉えようとしました。
ネーティ・ネーティとレオモードは同じ答えではありません。前者はウパニシャッドの自己・究極者の探究に属し、後者は近代科学と断片化された思考への批判から生まれました。共通して見えるのは、文の形が、そのまま世界の最終形だとは限らないという警戒です。
現代への応用(本記事での解釈)
強いラベルを使ったとき、その文を出来事の文へ戻してみます。
- 「あの人は無責任だ」から「約束の時刻までに連絡がなかった」へ。
- 「私は意志が弱い」から「疲れた夜に予定を先送りした」へ。
ラベルを外すと、責任が消えるのではなく、何を確かめ、何を変えられるかが具体的になります。
参考文献
- 『ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド』第2章第3節、第4章第5節
- David Bohm, Wholeness and the Implicate Order, Chapter 2
次章では、「意識は一つか」という、数え方そのものが難しい問いへ進みます。