知る者を、どうやって知るのか
マイトレーイーの切実な問いと「ネーティ・ネーティ」から、自己を対象として掴むことの限界を読む。
「不死になれない富を、私はどうすればよいのか」
ヤージュニャヴァルキヤは、家を離れて森へ入ろうとしていました。財産を二人の妻に分けようとしたとき、マイトレーイーが尋ねます。
「もし、この世界すべてが富で満たされ、それが私のものになったなら、私は不死になれるでしょうか」
「なれない。裕福な人として暮らせるだけだ。富によって不死になる望みはない」
そこで彼女は、話を終わらせませんでした。
「不死になれないものを、私はどうすればよいのでしょう。あなたが知っていることを、私に教えてください」
『ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド』に残されたこの対話は、哲学が始まる瞬間を捉えています。何かをたくさん持つことと、自分が何者かを知ることは同じではない。マイトレーイーは、その違いをごまかさなかったのです。
愛するものの奥にある問い
ヤージュニャヴァルキヤは答えます。
夫が愛しいのは、夫そのもののためではなく、自己のためである。妻も、子も、富も、世界も、自己のために愛しい。だから自己は、聞かれ、考えられ、見極められなければならない。
現代の耳には、利己主義のように聞こえるかもしれません。しかし、ここでいうアートマンは、欲望を満たしたがる小さな自我をそのまま指すわけではありません。対話はむしろ、私たちが「大切だ」と感じる経験の中心をたどり、その中心を本当に対象として掴めるのかを問います。
机は見ることができます。考えは言葉にできます。感情も、少し距離を取れば観察できます。
では、それらを見て、考え、観察している「知る者」は、何によって知られるのでしょうか。
「それではない」を重ねる理由
『ブリハッドアーラニヤカ』には、ネーティ・ネーティという有名な表現があります。
neti neti――それではない、それでもない。
これは、すべてを否定して虚無へ向かう合言葉ではありません。同じ箇所でブラフマンは、物質的/非物質的、死すべき/不死なる、定まった/定まらない、とさまざまに語られています。そのうえで「それだけではない」と限定が外されます。
言葉が役に立たないのではありません。言葉は、違いを示し、方向を定め、誤解を退けます。しかし、ある説明を聞いた瞬間に「これが全体だ」と箱を閉じるなら、その説明は対象を小さくしてしまいます。
ネーティ・ネーティは、箱を壊すための否定です。
カメラは、自分の撮影者を撮れるか
自己を知ろうとすると、奇妙なずれが起きます。
「私は不安だ」と言えば、不安は観察の対象になります。「私はこういう性格だ」と言えば、性格は説明の対象になります。身体、記憶、役割、価値観も、言葉にした瞬間、目の前へ置かれます。
しかし、そのたびに、置いたものを見ている側が残ります。
カメラをどれだけ回転させても、撮影しているという働き全体を、同じ一枚の写真には収めきれません。同様に、自己を一つの属性として定義すると、その属性を知っている側が定義の外へ残ります。
だからヤージュニャヴァルキヤは、対話の終わりに問います。
「すべてを知る、その知る者を、どうやって知るのか」
これは「知ることは不可能だ」という降伏ではありません。自己を椅子や石と同じ対象として探す方法が、問いに合っていないと示しているのです。
ヴィトゲンシュタインやゲーデルと同じなのか
ネーティ・ネーティは、ヴィトゲンシュタインの「語りえぬもの」や、ゲーデルの不完全性定理と並べられることがあります。たしかに、どれも「一つの枠組みで、すべてを言い尽くせるのか」という不安を呼び起こします。
しかし、三者を「結局、言葉には限界がある」という一文へまとめると、いちばん面白い違いが消えてしまいます。
ゲーデルが示したのは、数学の体系の内側で起きること
ゲーデルの不完全性定理は、自然数の算術を十分に表せる、矛盾のない形式体系についての数学的な結果です。大まかに言えば、その体系の規則だけでは証明も反証もできない文が生じうる。また、その体系が矛盾していないことも、一定の条件のもとでは体系自身の内側だけで証明できません。
これは「人間には真理を知れない」という定理ではありません。人生、宗教、意識、宇宙のすべてが不完全だという話でもありません。むしろ、どれほど精密な規則を持つ数学の体系でも、何をその体系の内側で証明できるかには条件がある、と示したのです。ゲーデルの不完全性定理の解説は、この点を誤解しないために読む価値があります。
ヴィトゲンシュタインが問うたのは、世界を語る言葉の輪郭
初期のヴィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』で、文が意味を持つのは、世界で起きうる事実をある仕方で写せるときだと考えました。だから、倫理、生の意味、世界そのものの価値などを、事実を説明する文と同じやり方で言い表せるとは限らない。そのよく知られた結論が「語りえないものについては沈黙しなければならない」です。『論理哲学論考』第7命題
これも、「言葉にできないことは存在しない」と言っているわけではありません。むしろ、人生にとって重要なことが、事実を報告する言葉の型には収まらないからこそ、言葉で言えることと言えないことの境界を見定めようとしたのです。
ネーティ・ネーティは、沈黙でも定理でもない
それに対して、「これではない、これではない」と繰り返すネーティ・ネーティは、自己やブラフマンを、一つの対象のように特定することを一つずつ退ける対話の運動です。「私は記憶だ」と言えば、記憶は変わり、それを知っている側が残る。「私はこの役割だ」と言えば、役割は失われうる。そのたびに、何か一つを「これが私の全体だ」と固定することを断るのです。
三者が同じ答えを出したのではありません。それでも並べる意味はあります。どれも、自分が使っている方法は、何を明らかにし、何をこぼしているのかを問い返すからです。証明、説明、名付けは、どれも強力です。だからこそ、それだけでは捉え切れないものを、存在しないものと取り違えない。ここに、三つを並べて読むための、慎重で激しい共通点があります。
日常の「ネーティ・ネーティ」
誰かに「あなたはこういう人だ」と断定されたとき、窮屈さを感じることがあります。それは、説明が完全に間違っているからとは限りません。部分的には正しくても、それが全体として扱われるからです。
自分に対しても同じことをしています。
- 失敗した。だから私は無能だ。
- 怒っている。だから私は悪い人間だ。
- 評価されない。だから価値がない。
ネーティ・ネーティは、これらを前向きな言葉で塗り替える方法ではありません。
「私は失敗した。それは事実だ。だが、私は失敗だけではない」
「私は怒っている。怒りはここにある。だが、私は怒りだけではない」
事実を消さず、それでも一つの事実だけで自分のすべてを決めない。ここでの否定は、現実逃避ではなく、起きたことと自分の全体を区別するための働きです。
答えを閉じない
マイトレーイーは、富を軽蔑したのではありません。富ができることと、できないことを見分けました。ヤージュニャヴァルキヤも、言葉を捨てたのではありません。言葉を尽くし、その言葉が届く限界まで彼女を連れていきました。
ネーティ・ネーティとは、何も言わないことではありません。
言ったことを、真実の全体にしないことです。
次章では、この慎重さを世界の側へ向けます。壺と土、蜜と花、川と海。名前が変わるとき、ものはどこまで変わるのでしょうか。