同じものを見ているのに、なぜ話がずれるのか
プラマーナとナヤの区別から、部分的な観点が単なる個人の意見ではない理由を考えます。
一つのコップを前にしても、問いが変われば答えは変わります。
「何でできているか」と聞けばガラスです。「何に使うか」と聞けば水を飲む道具です。「いまどこにあるか」と聞けば机の端です。答えは異なりますが、三つのコップがあるわけではありません。
話がずれるとき、私たちは答えだけを比べがちです。ジャイナ教の認識論は、その答えが対象のどこへ焦点を当てているかを問います。
プラマーナとナヤ
『タットヴァールタ・スートラ』第1章6節は、基本原理を知る方法として、プラマーナとナヤを挙げます。
プラマーナは、妥当な知、または対象を包括的に知る働きです。ナヤは、対象の特定の側面へ焦点を当てる観点を指します。第1章33節はナヤを七つに分類し、一般的な捉え方、具体的な用法、現在の状態、言葉の慣用や語源など、何を主にして語るかを分けています。
大切なのは、ナヤが「私はこう感じた」という個人の感想と同じではないことです。コップを材質から見ることにも、用途から見ることにも、確かめる対象と基準があります。ナヤは対象の一面を捉えますが、対象との関係を失ってはいません。
部分的であることと、誤りであることは違う
部分的な説明は、それだけで誤りにはなりません。「このコップはガラスでできている」は、用途を説明していなくても正しい文です。
問題が生じるのは、その一面を対象のすべてだと扱うときです。「これはガラスだ」という説明から、「だから飲み物を入れる道具ではない」と結論すれば、材質の観点が他の側面を押しのけます。
6世紀ごろの注釈書『サルヴァールタシッディ』は、ナヤが一つの属性を前景に置き、他の属性を背景に残すと説明します。背景に置くことと、存在しないことにするのは別です。ある観点を絶対化すると、本来は有効だった説明が一面的な誤りへ変わります。
ここには、現代の対話にも使える厳しい基準があります。相手の意見を尊重するだけでは足りません。その意見が何を対象とし、どの条件で成り立つのかを確かめる必要があります。同時に、自分の説明が答えていない問いも見なければなりません。
盲人と象は、完成図を保証しない
多面性を説明する際には、「盲人と象」の寓話がよく使われます。象の脚に触れた人は柱、尾に触れた人は縄、耳に触れた人は扇のようだと語ります。この寓話はジャイナ教だけのものではなく、仏教を含むインドの複数の伝統に形を変えて現れます。後代には、ジャイナ教の多面性を説明する物語として広く用いられました。
寓話から得られるのは、「全員の意見を足せば自動的に真理になる」という約束ではありません。触れたものが本当に象なのか、報告が正確なのか、部位同士がどう関係するのかを確かめる作業が残ります。
他者の観点は、自分の欠けた部分を埋める材料になることがあります。同時に、誤認や虚偽もありえます。多面性は判断を放棄させるのではなく、判断に必要な問いを増やします。
現代への応用(本記事での解釈)
意見が衝突したとき、結論へ急ぐ前に三つだけ確かめてみます。
- 相手は、対象の何を主に見ているか。
- 私は、どの側面を背景へ退けているか。
- 両方の説明を確かめる共通の対象や根拠は何か。
これは原典にある会話術ではなく、プラマーナとナヤの区別から作った現代的な応用です。
次章では、観点が複数あるだけでなく、対象そのものが変化と持続をあわせ持つという、アネーカーンタヴァーダの存在論へ進みます。
参考文献
- ウマースヴァーティ『タットヴァールタ・スートラ』第1章6節・33節
- プージュヤパーダ『サルヴァールタシッディ』第1章6節・33節注
- Nathmal Tatia, That Which Is: Tattvārtha Sūtra
- Marie-Hélène Gorisse, "Jaina Philosophy," Stanford Encyclopedia of Philosophy