ジャイナ教を学ぶ 第一部
1章 / 全8

正しい見方だけでは、なぜ自由になれないのか

正しい見方・知識・行為という三宝から、ジャイナ教が認識の慎重さを解脱の道へどう位置づけたかを読み解きます。

nakano
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ジャイナ教
タットヴァールタ・スートラ
三宝

会議のあとで、相手の立場も分かっていたと言うことはできます。それでも、話している最中には相手の言葉を遮り、自分の案だけを押し通してしまうことがあります。

見方を増やせば、人は自由になれるのでしょうか。

この問いから「ジャイナ教を学ぶ 第一部」を始めます。多面的な見方で知られるジャイナ教は、認識の柔軟さだけを教えたわけではありません。何を正しく見るか、何を知るか、そしてどう行為するかを、解脱へ向かう一つの道として結びました。

三つのうち、どれか一つでは足りない

ジャイナ教の体系書『タットヴァールタ・スートラ』は、冒頭で次の三つを並べます。

  • 正しい見方・信(サムヤグ・ダルシャナ)
  • 正しい知識(サムヤグ・ジュニャーナ)
  • 正しい行為(サムヤク・チャーリトラ)

第1章1節では、正しい見方・知識・行為が「解脱への道」と単数形で結ばれています。三つの解脱への道が別々にあるのではなく、三つがそろって一つの道を形づくるということです。後代には、この三つが「三宝」と呼ばれるようになりました。

ジャイナ教は、多面的な見方で知られています。そのため「正しい見方」と聞くと、その柔軟な態度そのものを思い浮かべるかもしれません。しかし三宝でいう正しい見方は、考え方を柔らかくすることだけではありません。魂、カルマ、束縛、解放をめぐるジャイナ教の基本原理を、現実を理解する手がかりとして受け入れることです。正しい知識は、その原理を取り違えずに知ること。正しい行為は、知った内容に沿って誓戒と修行を生きることです。

見方が知識の向きを決め、知識が行為を導き、行為が見方の真剣さを試します。「相手にも一理ある」と分かっていても、その理解が発言や振る舞いを変えなければ、三つはまだ一つの道として働いていません。

正しい見方・知識・行為が一つの道になる構造

どの時代のジャイナ教を読んでいるのか

マハーヴィーラは紀元前6世紀ごろの人物とされます。一方、『タットヴァールタ・スートラ』の成立は、おおむね紀元2〜5世紀ごろと考えられています。マハーヴィーラの言葉をその場で記録した本ではなく、長く受け継がれた教えをサンスクリットで体系化した文献です。

この文献は、シュヴェーターンバラ派とディガンバラ派の双方で重んじられます。ただし、本文の形や節の数、注釈の読みまで完全に同じではありません。さらに、第一部で扱うアネーカーンタヴァーダやサッドヴァーダは、後代の論理学者たちによって精密に体系化されました。

そのため、本シリーズでは三つの層を分けます。

  1. 『タットヴァールタ・スートラ』が示す認識と解脱の骨格
  2. 後代のジャイナ論理学が整えた多面性と条件付き言明
  3. 現代の読者がそこから考えられる応用

層を分けると、思想の力が弱まるわけではありません。誰が、どの時代に、何の問題へ答えたのかが見えるため、むしろ問いの輪郭がはっきりします。

「正しさへの疲れ」を、性格の問題で終わらせない

自分の正しさを証明し続けることに疲れるのは、性格が頑固だからとは限りません。一つの見方を全体だと思い、その見方を守ることが自分を守ることと重なると、異論は情報ではなく脅威になります。

ジャイナ教の認識論は、ここに別の入口を開きます。対象には複数の性質と変化があり、私たちはそのすべてを同じ仕方で捉えているわけではありません。けれども、そこからすぐに「誰の意見も正しい」と結論することはできません。どの見方が、対象のどの側面を、どの根拠によって捉えたのかを確かめる必要があります。

次章では、そのための重要な区別であるプラマーナとナヤを読みます。

今日、自分が強く守ろうとした意見は、何を見ていたのでしょうか。そして、何をまだ見ていなかったのでしょうか。

参考文献

  • ウマースヴァーティ『タットヴァールタ・スートラ』第1章1節
  • Nathmal Tatia, That Which Is: Tattvārtha Sūtra
  • Paul Dundas, The Jains
  • Nalini Balbir, "Tattvārtha-sūtra," JAINpedia