セリティを学ぶ 第二部
2章 / 全5

通過儀礼は、人を大人にするのか

北ソトの通過儀礼は、身体への処置だけでなく、知識・徳・共同体からの承認を含んでいました。何を残し、何を変えるべきかという論争から、成人になることの意味を考えます。

nakano
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アフリカ哲学

境目のない社会で、人はいつ大人になるのか

誕生日を迎えれば、年齢は一つ増えます。法律が定める年齢になれば、できることも増えます。けれど、それだけで自分が大人になったと感じられるとは限りません。

北ソトの通過儀礼を論じるとき、Ratheteはコマ(koma)という語を挙げます。論文では、若者が一定期間を過ごし、成人に向けた教育を受ける通過儀礼の場を指します。そこでは身体への処置だけでなく、共同体の価値、慣習、成人に期待される徳、ことわざや議論の仕方が教えられたと説明します。秘密を守る誓いもあり、儀礼を終えた人は、子どもとは異なる責任を担う者として迎えられました。

つまり通過儀礼は、身体を変える一日ではありません。知識を渡し、苦難を共にし、共同体が「あなたを大人として扱う」と承認する過程でした。

形を守れば、働きも残るのか

Ratheteの論文が興味深いのは、通過儀礼を無条件に礼賛していないことです。

論文は、成人に必要な教育は身体への処置だけでは代替できないと主張します。その一方で、不衛生な処置、過酷な環境、負傷や死亡の危険も取り上げ、実践を変える必要があると述べます。古い形を守ることと、儀礼が担っていた教育的な働きを守ることは、同じではないのです。

ここで、二つの立場がすれ違います。

一方は、「危険な形を止めれば、儀礼の意味も失われる」と心配します。もう一方は、「意味を語っても、現実に人が傷つくなら続けられない」と考えます。

必要なのは、伝統か近代かを一語で選ぶことではありません。何を残したいのかを、働きごとに分けることです。

  • 身体への処置
  • 年長者から若者への知識の継承
  • 同世代が経験を共にすること
  • 成人としての責任を公に認めること
  • 秘密を共有し、集団への帰属を確かめること

これらは一つの束になっていましたが、同じ方法でなければ実現できないとは限りません。

若者は、儀礼をどう評価していたのか

Ratheteは、文献やことわざだけでなく、質問紙と聞き取りによって2000年代の評価も調べました。調査では、教育が若者のセリティを高めるという回答が広く見られた一方、通過儀礼だけで若者の地位が高まるという見方には否定的な回答が目立ちました。特に、中等教育段階の回答者は強い否定を示しています。

この結果を「若者は伝統を捨てた」と読むのは早計です。調査対象は主に読み書きのできる教員、学生、専門職などで、北ソト全体を代表する無作為調査ではありません。質問紙も、何がセリティを高めるかを著者があらかじめ候補として示し、回答を求める形式でした。

それでも、この調査に参加した人びとの回答からは、少なくとも一つのずれが見えます。大人が「これを経験すれば一人前になる」と考える制度を、若者自身が同じように受け取っているとは限りません。

成人を認める儀礼が本人の声を聞かないなら、承認の場であるはずの儀礼が、服従を確認する場へ変わることがあります。

何を通過したら、大人なのか

ここからは、本記事での現代的な読みです。

現代社会にも、卒業、就職、独立、結婚など、大人になったことを示す節目があります。しかし、そのどれにも当てはまらない人は少なくありません。形式的な節目が減った一方で、責任を学び、失敗を振り返り、誰かから「ここからはあなたに任せる」と認められる機会まで失われているのかもしれません。

通過儀礼から受け取れるのは、古い形を復元する答えではなく、次の問いです。

社会は、若者に責任だけを求めていないか。その責任を学ぶ時間、支える仲間、失敗して戻れる場所も渡しているか。

通過儀礼を形と働きに分けて考える

人を大人として認める側には、権力があります。では、共同体を導く人自身のセリティは、何によって測られるのでしょうか。