セリティを学ぶ 第二部
1章 / 全5

子どもにもセリティはある:尊厳と成長の二重構造

人は生まれたときから尊厳を持つのか、それとも共同体の中で人格を認められて初めて『人』になるのか。北ソトのセリティが抱える二つの水準を、子どもをめぐる記述から考えます。

nakano
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アフリカ哲学

まだ何も成し遂げていない人にも、尊厳はあるか

生まれたばかりの子どもは、知恵も財産も地位も持っていません。それでも、その子にはすでに尊厳があるのでしょうか。

この問いは、セリティを読むときの難所に触れています。

ここでいうセリティ(seriti)は、北ソトを中心とする文脈で、人格、尊厳、影、祖先や儀礼との関係などが重なる言葉です。一つの日本語だけに置き換えると、別の側面がこぼれます。

北ソトを中心にセリティを調査したMatome Bethuel Ratheteは、障害がある人も、心を病む人も、罪を犯した人も、人であることによってセリティを持つと書いています。医師や法律家がセリティを持つのは、社会的地位が高いからではありません。まず人間だからです。

ところが同じ論文には、知恵がある人、親切な人、よく語り、共同体に貢献する人は、より強いセリティを持つと評価される、という説明もあります。前者は論文冒頭の定義、後者はRatheteが過去の文献やことわざから整理した人格評価です。

一方では、誰もが持つ尊厳。もう一方では、行為を通して育ち、周囲から認められる人格。セリティには、この二つの水準が重なっています。

子どもは、何をすることで認められたのか

Ratheteは、北ソトのことわざを手がかりに、子どもに期待されたふるまいを紹介します。その一つが、子どもは親や近隣の年長者に頼まれた用事を引き受ける、というものです。

これは、単に従順であれという命令ではありませんでした。用事を果たすことで、子どもは家の外へ出て、人に名前を覚えられ、信頼を得ます。ときには褒美を受け、将来を祝福される。小さな仕事が、子どもを共同体の関係へ結びつける機会になっていたのです。

しかし、この仕組みには危うさもあります。

大人の言葉に従う子だけが「よい子」と認められるなら、異議を唱える子、病気で動けない子、共同体の慣習に馴染めない子の尊厳は、見えにくくなります。人であることによって持つセリティと、期待された役割を果たして得る評価は、同じではありません。

この区別を失うと、行為を教えるための物差しが、人間の価値を選別する物差しへ変わってしまいます。

孤児を支える共同体、よそ者を退ける共同体

論文に紹介される別のことわざは、親を亡くした子どもも、共同体の法や教えから生き方を学べると伝えます。親族や周囲の大人が世話をするため、家に孤児がいると気づかないことさえある、とRatheteは記しています。

ここには、子どもを一つの核家族だけに背負わせない発想があります。親を失っても、関係まで失う必要はない。人格を育てる役割を、複数の大人が引き受けます。

ただし、同じ記述の中で「孤児」は、血縁や地域の後ろ盾を持たない人という意味にも広がります。共同体に知られていない人は、どれほど優れていても称賛されにくい。その閉鎖性を、Rathete自身が排外主義の問題として批判しています。

共同体は、身寄りのない子を支えることができます。同時に、「私たちの人ではない」という理由で、誰かを外へ押し出すこともできます。関係が尊厳を育てるという考えは、関係の外に置かれた人をどう迎えるかまで問わなければ、完成しません。

二つの水準を、どちらも手放さない

セリティを「立派な行為への評価」だけにすると、共同体から認められない人の尊厳が不安定になります。逆に、「誰にも同じようにある尊厳」だけで終えると、行為が他者へ残す影響を評価できません。

そこで、二つを重ねて考えます。

  • 人であることに伴う尊厳は、評価より先にある
  • 人格は、行為と関係の中で育ち、批判され、認められる
  • 行為を批判するときも、その人の尊厳まで取り上げない
  • 共同体の評価基準そのものも、排除を生んでいないか点検する

この二重構造があるからこそ、「人は人との関係で育つ」と言いながら、「共同体に従わない者は人ではない」という結論を避けられます。

子どものセリティに重なる二つの水準

子どもは、いつ大人になるのでしょうか。身体が成長したときでしょうか。知識を得たときでしょうか。それとも、共同体がその人を大人として迎えたときでしょうか。

次章では、この問いを通過儀礼から考えます。