クルアーンを学ぶ 第二部
1章 / 全6

忘れていた記憶なのか――第一の契約と、呼びかけに答える責任

クルアーン7章172〜173節の第一の契約を読み、フィトラ、想起、責任の関係をプラトンの想起説と比較します。

nakano
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イスラーム
クルアーン
契約
記憶
責任

初めて読んだ言葉なのに、以前から知っていたように感じることがあります。

誰かに親切にすべきだと教わる前から、目の前の仕打ちを「これはおかしい」と感じることがあります。忘れていた名前を聞いた瞬間のように、外から入ってきたはずの言葉が、内側にあった何かと結びつきます。

この感覚を、クルアーンは「魂に保存された知識が再生された」と説明しているのでしょうか。

答えを急ぐ前に、よく引かれる一節を読んでみます。

第一の契約で、何が語られているのか

第7章172節は、神がアダムの子孫を取り出し、彼ら自身を証人として「われは、あなたがたの主ではないのか」と問う場面を語ります。彼らは「その通りです。私たちは証言します」と答えます。

この場面は、しばしば第一の契約と呼ばれます。契約を意味するアラビア語から、ミーサークとも呼ばれます。

大切なのは、その直後です。節は、復活の日に人々が「私たちは顧みずにいた」と言えないようにするためだと続けます。さらに173節では、「祖先が先に多神を奉じていたので、自分たちはその子孫にすぎない」という言い訳も退けられます。

ここで前面に出るのは、懐かしい記憶の感触よりも、証言した者としてどう応答するのかという責任です。

「魂の記憶」は、本文そのものではない

イスラームの解釈史では、この場面を現世以前の魂が実際に経験した出来事として読む伝統があります。人間はその出来事を忘れていても、神への原初的な方向を失い切ってはいない。啓示は、その忘却を揺さぶる呼びかけになるという読みです。

この理解には長い思想史があります。ただし、7章172節は、私たちが現世で再生できる心理的な記憶を保存しているとは直接述べていません。

ここを分けると、三つの言葉の役割が見えやすくなります。

  • ミーサークは、神の主性について証言した契約の場面です。
  • フィトラは、30章30節で神が人々に備えた「本来の天性」として語られます。
  • マアリファは「知る」「認識する」に関わる言葉で、後代の思想、とくにスーフィズムでは体得的な神認識として深く論じられました。

これらは結びつけて読まれてきましたが、同じ概念ではありません。第一の契約をそのまま記憶データ、フィトラをその保存装置、啓示を再生ボタンと考えると、分かりやすさと引き換えに、原典と解釈史の厚みが失われます。

プラトンの想起説は、なぜ学べるのかを問う

第一の契約を「忘れていた知」として読むとき、比較の相手としてよく挙がるのがプラトンの想起説です。ただし、プラトンがこの説を持ち出すのは、懐かしさの正体を説明するためではありません。そもそも人は、知らないものをどう探し、学べるのかという難問に答えるためです。

『メノン』では、探しているものを知らないなら、見つけてもそれだと分かりません。すでに知っているなら、探す必要がありません。これでは、学ぶこと自体が不可能に見えます。

そこでソクラテスは、魂は以前に学んだことを思い出せるのだという説明を持ち出します。彼は幾何学を習っていない少年に問いを重ねます。少年は一度は誤答しますが、自分の誤りに気づき、図形の関係をたどり直していきます。答えを教え込まれるのではなく、問いによって探究できる状態へ変わる。この場面が示す想起の面白さは、学習を「空の器へ知識を注ぐこと」だけでは捉えない点にあります。

第一の契約にも、外から初めて与えられた情報だけでは捉えきれない人間像があります。啓示の呼びかけは、まったく無関係な相手へ届くのではなく、神へ向かいうる人間へ届く。この範囲では、二つの思想を並べる意味があります。

しかし、両者が解こうとする問題は異なります。プラトンの想起説は、問いを通じて真理を探究できるのはなぜかを説明します。クルアーン7章172〜173節が前面に置くのは、神の前での証言と、後に無知や祖先を言い訳にできない責任です。第一の契約には、『メノン』のように問いによって命題的な知識を取り戻す手順も示されていません。

この違いを残すと、第一の契約の特徴がかえってはっきりします。ここで問われているのは、隠された答えを発見できるかだけではありません。呼びかけを受けた者が、その関係を認め、どう答えるかです。

知っていることより、答えること

第一の契約を「すでに全部知っている」という話にすると、学ぶ必要さえ薄れてしまいます。けれどもクルアーンは、使徒、啓示、しるし、熟考を繰り返し語ります。方向が備わっていることと、その方向を見失わないことは別です。

30章30節がフィトラに沿って顔を向けるよう促すのも、人が自動的に正しい方向へ進むからではありません。同じ章は、人が困難の中では神へ立ち返り、恵みを得ると忘れてしまう姿を描きます。

人間は、呼びかけに応じうる存在でありながら、忘れ、言い訳をし、祖先や環境へ責任を預ける存在でもあります。第一の契約は、その両方を一つの場面に置きます。

現代への応用(本記事での解釈)

日常で「なぜか腑に落ちる」と感じたとき、それを神秘的な証明として急いで扱う必要はありません。感覚は大切な入口ですが、誤ることもあります。

そこで、記憶の有無を判定する代わりに、三つの問いへ変えてみます。

  • いま聞いた言葉は、自分のどの経験と結びついたのか。
  • それは、自分に何を認めるよう求めているのか。
  • 認めたあと、どの行為で答えるのか。

第一の契約を読む面白さは、「私たちは答えを持っている」と安心することより、呼びかけを受けた者として、いま何と答えるかを問われるところにあります。

第一の契約から現世の応答と責任へ進む構造図

次章では、同じ「応答」が社会的な対立の中でどう変わるかを見ます。「ジハード」を聖戦か平和的努力かの二択に閉じず、クルアーンの異なる文脈から読み直します。

参考文献

  • 東京ジャーミイ出版会『クルアーン 日本語読解』第7章172〜173節、第30章30節。
  • Ramon Harvey, “Primordial Human Nature (fiṭra),” St Andrews Encyclopaedia of Theology.
  • William C. Chittick and Mohammed Rustom, “Recognition (maʿrifa),” St Andrews Encyclopaedia of Theology.
  • プラトン『メノン』80d〜86c。