努力しても同じなら、なぜ働くのか
『墨子』の非命と三表から、努力を無益にする宿命論への反論と、それを自己責任論へ変えない読み方を考えます。
何をしても結果は変わらない。豊かになる人は最初から決まっており、失敗する人も決まっている。政治が治まるか乱れるかも、人間の努力では動かせない。
もし社会の多くの人がそう考えたら、何が起こるでしょうか。
『墨子』「非命上」は、運命について抽象的に論じる前に、その言説が人々の行為をどう変えるかを見ます。上に立つ者は統治に励まなくなり、民衆は生産に従事しなくなる。その結果、政治は乱れ、財用は不足する。墨家が「命」を退けるのは、人間の努力を無益にする教えが、現実に国と民の利益を損なうからです。
非命が退ける「命」とは何か
「非命(ひめい)」は、起きることすべてに原因がないと主張する思想ではありません。人の力では動かせない条件や、不運の存在を否定する言葉でもありません。
「非命上」が批判するのは、富か貧か、人口が増えるか減るか、政治が治まるか乱れるか、長生きするか早く死ぬかまで、あらかじめ命によって定まり、人間が励んでも変わらないとする言説です。
この言説が広がると、為政者は失政を命のせいにでき、働く側も努力を無意味だと考えます。墨家が重視する「強(きょう)」は、筋力や強制ではなく、務めに励むことです。耕作し、統治し、互いに利する行為が結果に関わるからこそ、賞罰や教育にも意味が生まれます。
ここには力強い人間観があります。ただし、「努力すれば必ず成功する」と読み替えてはいけません。墨家の主張は、努力が結果を保証することではなく、努力が結果に関与しないという宿命論を退けることです。この違いを失うと、非命は困難な状況にいる人を責める自己責任論へ変わってしまいます。
三表は、何を根拠に言説を採るかを問う
墨家は、有命論が有害だという印象だけで議論を終えません。「非命上」は、言説には三つの表、すなわち確かめる足場が必要だと述べます。
- 本(ほん):古の聖王の事績にさかのぼる。
- 原(げん):民衆が実際に見聞きしたことを調べる。
- 用(よう):刑政として実施したとき、国家と民衆の利益になるかを見る。
この三つは、現代の「歴史データ・現場データ・成果測定」と少し似て見えます。しかし、三表は権威を排した科学的方法ではありません。第一の表は聖王の事績を基準にし、第三の表は何が国家と民衆の利になるかという価値判断を含みます。また、「非命」の中篇・下篇では定式にも違いがあります。
三表の面白さは、事実だけ、伝統だけ、結果だけのどれか一つで決めないことにあります。古い言葉に根拠があっても、人々の見聞と食い違い、政治に用いて害を生むなら採用できません。反対に、目先の効果があっても、どのような秩序を正しいとするかを抜きに評価はできません。
三表は、あらゆる命題の真偽を自動判定する機械ではなく、言説や政策を社会で採用してよいかを複数の足場から問う方法なのです。
エピクテトスは、結果より選択の自由を守る
古代ローマのストア派哲学者エピクテトスは、『提要』の冒頭で、私たち次第のものと、私たち次第ではないものを分けます。判断、欲求、選択は私たち次第ですが、身体、財産、評判、地位は思いどおりになりません。
この区別は、しばしば「変えられるものだけに集中せよ」と要約されます。しかし、中心にあるのは効率的な目標管理ではありません。外的な結果を自分の所有物だと思わず、他人や運命に奪われない選択の自由をどこに置くかという問いです。
非命とエピクテトスは、人間の働きを最初から無力としない点で響き合います。ただし、向いている先は異なります。エピクテトスは、結果を完全には支配できない世界で、判断と選択をどう正しく保つかを問います。墨家は、努力は無益だという言説が、統治、生産、人口、社会秩序を損なうことを批判します。
同じ不作を前にしても、二つの思想は別の問いを立てるでしょう。エピクテトスは、天候や市場を所有できない中で、どの判断と行為が自分に属するかを問います。墨家は、不作を命のせいにして統治や備えをやめれば、どのような害が民衆に及ぶかを問います。個人の選択と社会の治利という焦点の差を残すことで、両方の鋭さが見えてきます。
「仕方がない」と「本人の努力不足」の間
現代では、宿命論とは反対の言葉が人を追い詰めることがあります。「努力すれば何でも変えられる」「結果が出ないのは努力不足だ」という言葉です。
非命を現代へ生かすなら、諦めを責める前に、行為と結果の間を丁寧に見ます。
- いま変えられないと決めつけているものは何か。
- 結果に影響する条件のうち、個人で動かせるものは何か。
- 制度や集団でなければ動かせないものは何か。
- 努力を求めることで、誰の失政や負担を隠していないか。
これは三表をそのまま現代化した方法ではなく、非命を自己責任論へ変えないための本記事の応用です。人間の行為には力があります。しかし、その力が働く条件まで個人に背負わせれば、為政者の怠慢を批判した墨家の議論を逆向きに使うことになります。
三つの章を通して見えるもの
第二部で読んだ尚同、天志、明鬼、非命は、一つの組織を順番に組み立てる四層アーキテクチャではありません。『墨子』の異なる篇が、戦国期の混乱に対して別々の問題を扱っています。
- 人々の義が衝突するなら、誰が判断を統一するのか。
- 人間の目が届かない場所で、何が善悪を支えるのか。
- 努力は無益だという言説を、何を根拠に退けるのか。
これらを結ぶのは、天下の利を興し、害を除くという墨家の方向です。そして、その方向を実現するために、強い権威、天と鬼神への信頼、賞罰、勤勉が求められます。
墨家の魅力は、平等な配慮や反戦だけではありません。秩序を実現するためなら、どれほど強い統一を認めるのかという不穏さも含んでいます。そこまで見たとき、『墨子』は現代の制度を褒めるための先駆者ではなく、共通の正しさを作ることの代価を問い返す思想になります。
参考文献
- 『墨子』「尚同上」、「天志上」、「明鬼下」、「非命上」
- Stanford Encyclopedia of Philosophy, “Mohism”
- Internet Encyclopedia of Philosophy, “Mozi”
- Stanford Encyclopedia of Philosophy, “Hobbes’s Moral and Political Philosophy”
- Stanford Encyclopedia of Philosophy, “Jeremy Bentham”
- Stanford Encyclopedia of Philosophy, “Epictetus”
付録:総合図解
以下の図は、四つの教説を一つの工程へ並べず、それぞれがどの問題へ答えようとしたかを分けて示します。図は拡大・縮小でき、拡大後はドラッグして移動できます。