墨子を学ぶ 第二部
2章 / 全3

誰も見ていない場所で、なぜ善く振る舞うのか

『墨子』の明鬼を、鬼神の実在論と社会的な効用の両面から読み、近代のパノプティコンと比較します。

nakano
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誰にも見つからず、罰も受けないと分かっているとき、それでも約束を守る理由はどこにあるのでしょうか。

法律は、すべての場所を見張れません。上司も、警察も、共同体の評判も届かない場所があります。規則を作るだけでは、人の行為を最後まで支えられない。この問題に対して、『墨子』は現代人が戸惑う答えを出します。

鬼神は存在し、善い者を賞し、暴虐な者を罰する。そのことを明らかにせよ、というのです。

「明鬼」は、鬼神を明らかにする

「明鬼(めいき)」の明は、鬼神について明らかにするという意味です。現存する「明鬼下」は、天下が乱れる理由の一つを、人々が鬼神の有無を疑い、鬼神が賢者を賞し暴虐を罰する力を理解していないことに求めます。

ここでいう鬼神は、輪郭のない「誰かの視線」ではありません。過去の不正を見抜き、殺された者のために罰を下し、正しい行いには報いる存在として語られます。篇は古い伝承や人々の見聞を並べ、鬼神が実在することを論証しようとします。

したがって、墨家は鬼神を信じておらず、民衆を統治するためにだけ利用した、と断定することはできません。『墨子』では、鬼神の実在と、その信仰が天下にもたらす利益が一つの議論の中に置かれています。

信じることは、行為をどう変えるのか

「明鬼下」は、鬼神が賞罰することを天下の人々が信じれば、官吏は不正をためらい、人々は暴力や盗みを控え、天下の乱れは減ると論じます。

これは信仰の社会的な働きに注目した議論です。目の前の権力者を欺けても、鬼神の目は逃れられない。生前に罰を免れても、行為が消えるわけではない。そう考える社会では、法律が届かない場所にも善悪の基準が及びます。

ただし、この働きを「監視コストの削減」とだけ表現すると、原典の世界が小さくなります。明鬼が支えようとしたのは、安く人を管理する制度ではありません。正義が人間の力関係だけで決まらず、隠れた暴虐も最後には裁かれるという道徳的な秩序です。

その秩序は、弱い立場の人にとって希望にもなります。権力者が証拠を消し、裁判を支配しても、鬼神は見ている。一方で、誰が鬼神の意志を語るのかによっては、恐れが服従を強いる道具にもなります。見えない審判者への信頼は、見えない権力への恐怖と隣り合っています。

パノプティコンは、見ているかどうかを隠す

18世紀のジェレミ・ベンサムは、円形の建物の中央に監視塔を置く「パノプティコン」を構想しました。監視者は周囲の部屋を見られますが、部屋にいる人からは、いま実際に見られているか分かりません。いつ見られているか判断できないため、人は監視者が不在の時にも行動を整えるようになります。

明鬼とパノプティコンには、直接の監視がない瞬間にも行為が変わるという共通点があります。しかし、同じ仕組みではありません。

パノプティコンは、人間が設計した建築と情報の非対称性を使います。監視者が見ていなくても、見ている可能性が効果を生みます。明鬼では、鬼神は実際に人間の善悪を知り、賞罰する道徳的な主体です。片方は「見られているか分からない」装置であり、もう片方は「人間の目を逃れても見られている」世界観です。

この違いを残すと、明鬼の独特さが見えてきます。人間の制度に監視されることと、人間を越える正義に応答することは、同じ服従を生むとは限りません。前者では監視者の利益が基準になりえます。後者では、地上の支配者自身も天と鬼神の賞罰を免れません。

現代の説明責任は、視線だけでは作れない

SNSの評判、レビュー、行動履歴の記録は、「見られる可能性」によって行為を変えます。しかし、可視性が高まれば正義が増えるわけではありません。誤った告発、文脈を失った評価、集団による制裁も起こります。

明鬼を現代へ読み替えるなら、監視を増やす方法より、見えない場所の行為にも責任を結びつける条件を考えるほうがよいでしょう。

  • 何を善悪の基準とするのか。
  • 誰が事実を確かめるのか。
  • 誰が賞罰を下し、その判断へ異議を申し立てられるのか。
  • 権力者自身も同じ基準で裁かれるのか。

これは「明鬼下」に書かれた四項目ではなく、本記事での応用です。見られているという感覚だけを作れば、人は従うかもしれません。しかし、何が正しいか、審判者は正しいかという問題は残ります。

明鬼とパノプティコンの比較

次章では、秩序が必要だと分かっていても、「結果はすでに決まっている」と人々が考えたら何が起こるのかを読みます。