ジャイナ教を学ぶ 第二部
4章 / 全8

空腹に耐えれば、自由になれるのか

外的・内的な十二のタパスを読み、ジャイナ教の修行をフーコーの規律と自己形成の議論から考えます。

nakano
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ジャイナ教
タパス
フーコー

食べない。所有しない。一か所に安住しない。暑さや寒さに耐える。

ジャイナ教の出家修行は、現代の読者を戸惑わせます。身体を痛めるほど精神が高くなるという話なら、危険な美化にも見えます。

ところが『タットヴァールタ・スートラ』を読むと、タパスは断食一つに集約されていません。身体に関わる六つの外的タパスと、心・学び・他者との関係に関わる六つの内的タパスが並びます。

十二のタパス

第9章19節は、外的タパスを次のように挙げます。

  • 断食する
  • 食べる量を減らす
  • 食を得る条件をあらかじめ制限する
  • 刺激や味への執着を手放す
  • 静かな場所に身を置く
  • 身体の苦痛に耐える

続く節では、内的タパスとして、過ちの償い、敬意、他者への奉仕、学習、身体や所有への執着を手放すこと、瞑想が語られます。

この並びには、重要な抑制が働いています。断食だけを激しくしても、過ちを認めず、学ばず、他者に仕えないなら、タパスの全体を実践したことにはなりません。身体の制限は目立ちますが、内側の修練と一組です。

また、出家者と在家者は同じ強さの誓戒を担いません。出家者は五つの大誓戒を厳格に守り、在家者は生活を続けながら限定された誓戒を実践します。修行は一人で発明する自己管理法ではなく、教団の規範、師弟関係、托鉢を支える在家共同体の中にあります。

十二のタパスを外的修練と内的修練に分けた図

フーコーなら、この修行をどう見るか

ミシェル・フーコーは『監獄の誕生』で、学校、軍隊、工場、監獄が、時間割、監視、試験、反復訓練を通じて身体を整える過程を分析しました。規律は暴力的な命令だけで働くのではありません。人が自分を測り、監視し、役に立つ身体へ作り替える仕組みとしても働きます。

この視点から見れば、ジャイナ教の修行を「外からの規律とは正反対」と簡単に言うことはできません。出家者の生活にも規則、序列、反復、自己監視があります。自分で選んだ修行であっても、共同体の権威や理想像から自由とは限りません。

一方、後期のフーコーは、古代の哲学実践を手がかりに、人が自分を倫理的な主体として形作る「自己への働きかけ」にも注目しました。ここでは、規則に従うかどうかだけでなく、どんな自分になろうとして、その実践を引き受けるのかが問われます。

この問いは、ジャイナ教のタパスを考える補助線になります。修行者が目指すのは、組織にとって扱いやすい身体ではなく、情念とカルマの束縛を減らし、解脱へ向かう魂です。ただし、その目標はフーコーの倫理学から出てくるのではなく、ジャイナ教固有の宇宙論と三宝に支えられています。

苦行を称賛する前に残る問い

身体への厳しい負荷には、傷害や強制の危険があります。修行を「主体性の奪還」と呼ぶだけでは、誰が自由に選べたのか、途中でやめられるのか、共同体が何を称賛するのかが見えなくなります。

だから、タパスの価値を判断するときは、苦しさの量より三つの関係を見たほうがよいでしょう。

  • その実践は、怒りや執着を弱めているか。
  • 学び、償い、奉仕と結びついているか。
  • 本人と周囲の生命を、より深く傷つけていないか。

これはタパスを現代向けの健康法に変える基準ではありません。外から見える我慢の強さだけで修行を理解しないための確認です。

ジャイナ教が置いた難題は、空腹に勝てるかではありません。身体を制御する行為そのものが、新しい誇りや支配になっていないか。その問いまで含めて、タパスは厳しいのです。

参考文献

  • ウマースヴァーティ『タットヴァールタ・スートラ』第7章、第9章3節・19〜27節
  • Nathmal Tatia, That Which Is: Tattvārtha Sūtra
  • Michel Foucault, Discipline and Punish
  • Michel Foucault, "Technologies of the Self"
  • Phyllis Granoff, The Forest of Thieves and the Magic Garden