空腹に耐えれば、自由になれるのか
外的・内的な十二のタパスを読み、ジャイナ教の修行をフーコーの規律と自己形成の議論から考えます。
食べない。所有しない。一か所に安住しない。暑さや寒さに耐える。
ジャイナ教の出家修行は、現代の読者を戸惑わせます。身体を痛めるほど精神が高くなるという話なら、危険な美化にも見えます。
ところが『タットヴァールタ・スートラ』を読むと、タパスは断食一つに集約されていません。身体に関わる六つの外的タパスと、心・学び・他者との関係に関わる六つの内的タパスが並びます。
十二のタパス
第9章19節は、外的タパスを次のように挙げます。
- 断食する
- 食べる量を減らす
- 食を得る条件をあらかじめ制限する
- 刺激や味への執着を手放す
- 静かな場所に身を置く
- 身体の苦痛に耐える
続く節では、内的タパスとして、過ちの償い、敬意、他者への奉仕、学習、身体や所有への執着を手放すこと、瞑想が語られます。
この並びには、重要な抑制が働いています。断食だけを激しくしても、過ちを認めず、学ばず、他者に仕えないなら、タパスの全体を実践したことにはなりません。身体の制限は目立ちますが、内側の修練と一組です。
また、出家者と在家者は同じ強さの誓戒を担いません。出家者は五つの大誓戒を厳格に守り、在家者は生活を続けながら限定された誓戒を実践します。修行は一人で発明する自己管理法ではなく、教団の規範、師弟関係、托鉢を支える在家共同体の中にあります。
フーコーなら、この修行をどう見るか
ミシェル・フーコーは『監獄の誕生』で、学校、軍隊、工場、監獄が、時間割、監視、試験、反復訓練を通じて身体を整える過程を分析しました。規律は暴力的な命令だけで働くのではありません。人が自分を測り、監視し、役に立つ身体へ作り替える仕組みとしても働きます。
この視点から見れば、ジャイナ教の修行を「外からの規律とは正反対」と簡単に言うことはできません。出家者の生活にも規則、序列、反復、自己監視があります。自分で選んだ修行であっても、共同体の権威や理想像から自由とは限りません。
一方、後期のフーコーは、古代の哲学実践を手がかりに、人が自分を倫理的な主体として形作る「自己への働きかけ」にも注目しました。ここでは、規則に従うかどうかだけでなく、どんな自分になろうとして、その実践を引き受けるのかが問われます。
この問いは、ジャイナ教のタパスを考える補助線になります。修行者が目指すのは、組織にとって扱いやすい身体ではなく、情念とカルマの束縛を減らし、解脱へ向かう魂です。ただし、その目標はフーコーの倫理学から出てくるのではなく、ジャイナ教固有の宇宙論と三宝に支えられています。
苦行を称賛する前に残る問い
身体への厳しい負荷には、傷害や強制の危険があります。修行を「主体性の奪還」と呼ぶだけでは、誰が自由に選べたのか、途中でやめられるのか、共同体が何を称賛するのかが見えなくなります。
だから、タパスの価値を判断するときは、苦しさの量より三つの関係を見たほうがよいでしょう。
- その実践は、怒りや執着を弱めているか。
- 学び、償い、奉仕と結びついているか。
- 本人と周囲の生命を、より深く傷つけていないか。
これはタパスを現代向けの健康法に変える基準ではありません。外から見える我慢の強さだけで修行を理解しないための確認です。
ジャイナ教が置いた難題は、空腹に勝てるかではありません。身体を制御する行為そのものが、新しい誇りや支配になっていないか。その問いまで含めて、タパスは厳しいのです。
参考文献
- ウマースヴァーティ『タットヴァールタ・スートラ』第7章、第9章3節・19〜27節
- Nathmal Tatia, That Which Is: Tattvārtha Sūtra
- Michel Foucault, Discipline and Punish
- Michel Foucault, "Technologies of the Self"
- Phyllis Granoff, The Forest of Thieves and the Magic Garden