成唯識論を学ぶ 第一部
1章 / 全4

唯識は、世界を消す思想なのか

『成唯識論』の出発点を、世界を脳内映像へ変える議論ではなく、見る者と見られるものがどう成立するかを問う思想として読み直します。

nakano
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唯識
成唯識論
仏教哲学

同じメッセージを読んでも、受け取り方は人によって違います。

「了解しました」という短い返事を、忙しいだけだと思う人もいれば、冷たく拒まれたように感じる人もいます。画面に並んでいる文字は同じです。それでも、そこに現れる相手の姿は同じではありません。

私たちはふつう、まず外に出来事があり、それを心が受け取るのだと考えます。けれども、実際の経験には、これまでの記憶、期待、恐れ、相手との関係が入り込んでいます。見えている世界は、外から届いた情報の写しではありません。

『成唯識論』が問い直すのは、この「見る者」と「見られるもの」の分かれ方です。

『成唯識論』は、何をしようとした書物なのか

『成唯識論』は、世親(ヴァスバンドゥ)の『唯識三十頌』を核とする全十巻の論書です。複数のインド注釈を参照しながら、護法の立場を中心に伝えています。7世紀に玄奘が漢訳し、中国や日本の法相教学に大きな影響を与えました。

この書物を読むとき、最初に押さえたいのは、その目的です。巻一の冒頭は、我と法への執着を離れ、二つの障りを断ち、解脱と菩提へ向かうために論を著すと述べます。

つまり、中心にあるのは「外の世界は本当にあるか」という知的なクイズだけではありません。私たちは、何を「私」と呼び、何を「私とは別の物」として固め、その理解によってなぜ苦しむのか。『成唯識論』は、認識の問題を解放の問題として考えます。

我と法は、どのように現れるのか

『唯識三十頌』の冒頭は、次のように始まります。

由假説我法 有種種相転
彼依識所変 此能変唯三
謂異熟思量 及了別境識

我や法というさまざまな姿は、識の変化によって仮に立てられており、その変化には異熟、思量、対象の了別という三つがある、と読むことができます。

ここでいう「法」は、法律ではありません。認識や議論の対象になるもの、存在するものとして捉えられる事柄を指します。「我」は変わらない主体としての私です。

論書は、日常で「私」や「机」と呼ぶことを禁じているわけではありません。問題にするのは、その言葉が指すものを、認識の働きから離れて、それ自体で固定した実体だと受け取ることです。

三つの能変は、後に八識として説明されます。

  • 異熟の能変:阿頼耶識。種子を保ち、経験の連続を支えます。
  • 思量の能変:末那識。阿頼耶識をよりどころとし、それを「私」として執着します。
  • 了別境の能変:眼・耳・鼻・舌・身の五識と意識。色や音など、それぞれの対象を捉えます。

八識は、脳の中を上から下へ分けた八つの部屋ではありません。認識が成立するときの働きを、三つの変化として分析したものです。

「一切唯識」は、外界否定の合言葉ではない

巻七には、唯識を考えるうえで重要な偈があります。

是諸識転変 分別所分別
由此彼皆無 故一切唯識

諸識の転変の中に、分別する側と分別される側が現れます。その二つを離れて、実体的な我や法があるわけではありません。そこで「一切唯識」と説かれます。

この議論を「外界は存在せず、頭の中に映像だけがある」と言い換えると、分かりやすく見えます。しかし、その言い換えは別の問題を生みます。頭の中に小さな観客がいて、外界の代わりに内側の映像を見ているような構図が残るからです。

唯識が揺さぶるのは、もっと手前の前提です。「見る私」と「見られる対象」が、最初から独立して存在し、その後で接触するという図式そのものを問い直します。

学術研究では、瑜伽行派を観念論と呼べるか、外的対象をどの意味で否定しているかについて議論が続いています。本シリーズでは、この論争を一つの答えに閉じません。ただし、このシリーズの出発点は明確です。少なくとも『成唯識論』は、各人が勝手な空想世界を作るという説ではありません。

同じ文字から、違う相手が現れる

冒頭のメッセージへ戻りましょう。

「了解しました」という文字列だけを見れば、相手の冷淡さまで書かれてはいません。けれども、読む側の不安、過去のやり取り、相手への期待が働くと、冷たい相手が経験の中に現れます。

だからといって、すべてが読者の思い込みだということにはなりません。相手の書き方、関係の歴史、職場の権力差も、経験が成立する条件です。唯識から得られる最初の手がかりは、出来事を外部か内部のどちらかへ押し込むことではなく、いま現れている対象が、どのような条件と認識の働きによって成り立っているかを見ることです。

三つの能変から経験が成立する構造

「見えた」と「実体である」の間

ここまでの要点は、三つにまとめられます。

  1. 『成唯識論』は、我と法への執着を断ち、解放へ向かうために認識を分析します。
  2. 八識は八つの脳領域ではなく、異熟・思量・了別境という三つの能変として捉えられます。
  3. 「一切唯識」は、世界を脳内映像へ置き換える標語ではありません。見る者と見られるものを、識の転変から離れた実体として固めることを問い直します。

では、過去の行為や経験は、どのようにして次の認識を形づくるのでしょうか。次章では、第一の能変である阿頼耶識と、「種子」という考えを追います。

参考文献

  • 護法等造、玄奘訳『成唯識論』巻一・巻七(大正蔵31、No.1585)
  • 世親造、玄奘訳『唯識三十論頌』(大正蔵31、No.1586)
  • Francis H. Cook, trans., Three Texts on Consciousness Only, BDK English Tripitaka
  • "Yogacara," Stanford Encyclopedia of Philosophy