「会社の方針です」で責任は消えるのか——役割の外に人を見る
アーレントの思考と判断を手がかりに、組織の役割が具体的な被害を隠すときの責任をウブントゥと考えます。
「規則ですので、私には変えられません」
窓口でそう言われた人は、目の前にいる担当者が規則を作ったわけではないと分かっています。それでも、自分の困りごとが制度の外へ落ちていく感覚は残ります。
組織には役割分担が必要です。一人で全体を背負えば、仕事は動きません。しかし役割が細かくなるほど、決定の結果を誰も見ないまま、全員が自分の担当を正しく処理することも起こります。
ウブントゥの関係的人間観は、この場面で一つの問いを差し出します。手続の向こうで、誰の人間性が傷ついているのか。
官僚語は、出来事から人を消す
「人員を最適化する」「対象を処理する」「例外は認めない」。こうした言葉は、複雑な仕事を共有するために役立ちます。同時に、何が誰に起きるのかを見えにくくします。
十人を解雇する決定は、資料の上では一行です。その一行の外には、住居、家族、治療、将来の計画があります。抽象化は必要ですが、抽象化したことを忘れると、数字が人間の代わりになります。
ウブントゥを、単に「他者の痛みを自分の痛みと感じること」と説明すると、感情の強さの話になってしまいます。実際の組織で必要なのは、全員に深い共感を抱くことだけではありません。結果を見えるようにし、異議を言える経路を作り、決定を見直せるようにすることです。
決まり文句を止めて、自分の行為を考える
周囲で当然とされる行為が他者を傷つけるとき、私たちは何を問い直せるのでしょうか。ハンナ・アーレントは、決まり文句に頼ることと、自分で考えることの間にある隔たりを追究しました。その議論の出発点には、大量虐殺の責任を問う裁判があります。
ハンナ・アーレントは、ナチ政権下でユダヤ人の移送に関わったアドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴し、『イェルサレムのアイヒマン』で「悪の凡庸さ」という表現を用いました。
ここで「凡庸」とされたのは犯罪の軽さではなく、彼女が法廷で見た、行為の重大さと思考の乏しさの落差です。以下では、その裁判解釈を人間一般の心理法則へ広げず、彼女自身が後に「思考と道徳的考察」で取り出した問いをたどります。
アーレントが法廷で注目したのは、アイヒマンが決まり文句や官僚語を繰り返し、自分の行為を具体的な人の経験から語れなかったことです。命令、規則、昇進、役割が行為の理由をすべて代行すると、目の前の人に何をしているかを考えずに済んでしまいます。
アーレントのいう思考は、正解を覚えて適用する能力とは区別されます。いったん立ち止まり、当然と思っている言葉や行為を、自分自身との対話へ持ち帰る働きです。ソクラテスを手がかりにした議論を言い換えれば、「この行為をした自分と、これからも一緒に生きられるか」と問い直すことです。周囲の承認があっても、自分の問いは残ります。
その働きは、新しい規則集を与えるより、古い規則を無条件に受け入れる習慣を揺さぶります。思考が当然の前提を問い直し、判断が目の前の具体的な行為について是非を見定める。アーレントは、この二つを区別しながら結びつけました。考えれば必ず善を選べるという保証ではなく、皆が従う中で、加担を拒む余地をどう保てるかという探究です。
人を支える関係には、異議を言う場所も要る
この問いを職場へ引き寄せるのは、本記事の応用です。大量虐殺と窓口対応を同列に置くのではなく、慣れた言葉が判断を代行してしまう場面に注目します。たとえば「公平に同じ扱いをした」と報告するとき、その公平さが何を意味し、誰に何が起きたのかを、もう一度言葉にすることはできます。
ウブントゥの側で手がかりになるのは、第1章で見た、互いを人として扱う中で人間性を育てるという考えです。メッツは共同性を、他者と共に行動することと、その人の幸福を気にかけて支えることの結びつきとして説明します。この読みでは、組織の足並みがそろっていても、傷つく人を顧みない関係は問い直されます。
アーレントの思考論は、当然とされる言葉を自分で吟味する働きに光を当てます。ウブントゥのこの倫理的解釈は、共に生きる相手をどう扱うかに評価の軸を置きます。両者を手がかりに職場を考えるなら、次のような取り組みが見えてきます。
- 自分が何をしているかを考える。
- 決定を受ける人の声が届く仕組みを作る。
- 「誰が決めたか分からない」状態を放置しない。
- 間違いを指摘した人が関係から追放されないようにする。
ここから「人は他者を通じて人となる」へ戻ると、関係を大切にすることには、その関係の中で行われることを問い直す責任も含まれる、と読めます。傷ついている人のために異議を述べることも、共に生きる関係を支える行為になりうるのです。「みんながそうしている」で話を閉じず、その人の声を聞ける場所を残すことが、冒頭の窓口の場面への一つの応答になります。
責任は、一人で全部を背負うことではない
組織的な問題を見つけたとき、自分だけが止めなければならないと思うと、声を上げることは難しくなります。責任を引き受けるとは、英雄になることではありません。
誰が情報を持ち、誰が決定し、誰が異議を受け取り、誰が修正できるのかを明らかにする。問題を個人の勇気だけに任せず、組織の設計へ戻す。これも関係への責任です。
現代への応用(本記事での解釈)
違和感を覚えた決定について、次の四点を書き出します。
- 手続上は、何が決まったのか。
- 具体的には、誰の生活がどう変わるのか。
- その人の声は、どこへ届くのか。
- 決定を修正できる人は、誰なのか。
感情を共有するだけでは制度は変わりません。制度だけを整えても、そこで起きる痛みが見えなければ修正は始まりません。
次章では、この緊張が国家の司法に現れた例として、南アフリカの死刑違憲判決と真実和解委員会を読みます。
参照資料
- Hannah Arendt, Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil.
- Hannah Arendt, The Life of the Mind, vol. 1, Thinking.
- Hannah Arendt, “Thinking and Moral Considerations: A Lecture,” Social Research, 38(3), 1971, pp. 417–446(特に冒頭と第III節).
- Thaddeus Metz, “Ubuntu as a Moral Theory and Human Rights in South Africa,” 2011, §3.