真理を諦めず、独占を手放せるか
三宝、ナヤ、アネーカーンタヴァーダ、サッドヴァーダ、アヒンサーを一つの道として振り返ります。
相手の見方を理解することと、相手の結論へ同意することは別です。
この区別が曖昧になると、対話には二つの極端が現れます。自分の見方を唯一の真理として押し通すか、衝突を避けるために「どちらも正しい」と言って終えるかです。
ジャイナ教の多面性は、その中間で穏やかに妥協する思想ではありません。対象、観点、条件、根拠、行為を一つずつ分け、何を言えるのかを厳しく確かめます。
第一部で見てきた一つの道
第1章では、正しい見方・知識・行為という三宝を読みました。認識の慎重さは、行為と解脱から切り離せません。
第2章では、包括的な知であるプラマーナと、対象の一面へ焦点を当てるナヤを区別しました。ナヤは個人の感想ではなく、対象と根拠を持つ観点です。
第3章では、存在が生起・消滅・持続を備えると考えました。アネーカーンタヴァーダは、人の意見が多様だという話にとどまらず、実在そのものを一面で尽くさない思想です。
第4章では、サッドヴァーダと七重判断を読みました。「ある観点から」は断言を曖昧にする逃げ道ではなく、言明が成り立つ条件を明らかにします。
第5章ではカーネマン、第4章ではウィトゲンシュタインと比較しました。共通する問いはありますが、現代心理学や言語哲学をジャイナ教の説明に置き換えることはできません。
第6章では、アヒンサーを生命への加害と行為者の情念・不注意から読みました。言葉の加害を考えることはできますが、「反論そのものが暴力」という結論は原典から直接出ません。
第7章では、相対主義への批判を扱いました。観点の多さは、根拠のない言明を正しくしません。多面性は判断をやめるためではなく、判断の範囲と修正可能性を示すために使えます。
分からなさを、相手へ押し返さない
「あなたの言うことは分からない」と感じるとき、原因を相手の説明力だけに置くことがあります。しかし、自分が一つの前提を動かせないために、説明が入ってこないこともあります。
ナヤの考え方は、分からなさを分解します。相手は対象の何を見ているのか。自分は何を問題にしているのか。同じ言葉を別の意味で使っていないか。食い違いが事実認識、価値判断、優先順位のどこにあるか。
分解した結果、なお同意できないこともあります。そのときに残るのは、表面的な仲直りではありません。何について、なぜ一致できないかを、以前より正確に知ることです。
完全に分かり合えないからこそ、条件と根拠を共有する意味があります。
真理の独占と、真理への責任
真理を独占しないという言葉は、真理を手放すことと混同されやすいものです。
ジャイナ教の認識論では、妥当な知と誤った知が区別されます。完全な知も、解脱した魂に関わる宗教的な目標として想定されます。したがって、「客観的な真理は存在しない」という相対主義とは異なります。
それでも、通常の人間の知は限られています。ここから生まれるのは謙遜の気分ではなく、知識を扱う責任です。自分の言明が何を捉え、どの条件で成り立ち、何を背景へ置いたかを示す。新しい事実が出れば修正する。反論するときは、相手の存在ではなく主張と根拠を検討する。
真理を独占しない人は、何も主張しない人ではありません。自分の主張が届く範囲を引き受けられる人です。
現代への応用(本記事での解釈)
大きな対立を一度で解決する方法はありません。日常で始めるなら、一つの断言を次の形へ戻せます。
私は、いま得られている事実と、この観点から、こう判断している。ここまでは確かめたが、ここから先はまだ分からない。
毎回この文章を口に出す必要はありません。自分の中で四つを分けるだけでも、判断は変わります。
- 得られている事実
- 採用している観点
- いま出している結論
- まだ確かめていない範囲
この実践は原典にある定型文ではなく、第一部の認識論から作った本記事の応用です。判断を遅くすること自体が目的ではありません。必要なときに決め、必要になったときに直せる判断を作るためのものです。
付録:総合図解
図解1 正しい見方・知識・行為は一つの道になる
この図は、『タットヴァールタ・スートラ』冒頭の三宝を中心に、認識から行為、解脱へ向かう流れを示します。三つのどれかだけを独立させたときの危険にも注目してください。
図解2 実在・観点・言明を三つの層で読む
中心にあるのは、一つの実在が複数の性質と様態を持つことです。アネーカーンタヴァーダ、ナヤ、サッドヴァーダを同義語にせず、存在・知識・言語の関係として読みます。
図解3 多面性と「何でもあり」の境界
多面性は判断を消しません。対象、根拠、条件を持つ観点と、根拠のない言明を分けます。古典的な批判から、現代の判断責任までを一つの流れにしました。
図解4 古典から現代の判断へ渡す
カーネマンとウィトゲンシュタインは、ジャイナ教を証明するための人物ではありません。共通する問いと異なる目的を分けたうえで、現代の判断へ使える確認項目を示します。
参考文献
- ウマースヴァーティ『タットヴァールタ・スートラ』第1章1節・6節・33節、第5章30節・32節・38節、第7章13節
- プージュヤパーダ『サルヴァールタシッディ』
- アカランカ『ラギーヤストラヤ』
- 『アーチャーラーンガ・スートラ』第1篇
- Nathmal Tatia, That Which Is: Tattvārtha Sūtra
- Bimal Krishna Matilal, The Central Philosophy of Jainism (Anekānta-vāda)
- Paul Dundas, The Jains
- Marie-Hélène Gorisse, "Jaina Philosophy," Stanford Encyclopedia of Philosophy
- Harshita Mruthinti Kamath, "In Some Ways: Syādvāda as the Synthesis of Anekāntavāda and Nayavāda in Akalaṅka’s Philosophical Treatises"
- Ludwig Wittgenstein, Philosophical Investigations
- Daniel Kahneman, Thinking, Fast and Slow