影だけでは捉えられない尊厳:セリティとは何か
北ソトのセリティを、影という語義だけでなく、人格・尊厳・知性・他者との関係が重なる概念として読み解きます。
誰かが入ってくると、部屋の空気が変わる
会議室に、ある人が入ってくる。
まだ何も話していないのに、背筋が伸びる。別の人が来れば、張りつめていた場が少しほぐれる。私たちは、人の存在を身体の輪郭だけで受け取ってはいません。声、ふるまい、積み重ねてきた評判、その人との過去。目に見えないものまで含めて、「この人がここにいる」と感じています。
この経験から、南部アフリカの言葉「セリティ」を「人が放つ雰囲気」や「オーラ」と説明したくなるかもしれません。
けれど、それでは入口を概念全体と取り違えます。
マトメ・ベスエル・ラテテの博士論文が調べたのは、アフリカ全体に共通する神秘的なエネルギーではありません。中心にあるのは、南アフリカの北ソトの人びとが、過去と調査当時にセリティをどう理解していたかという問いです。文献や諺で過去の用法をたどり、聞き取りと質問紙によって意味の変化を調べています。
この範囲を守ると、かえってセリティの不思議さがよく見えてきます。
一つの日本語に閉じ込められない
セリティには「影」という語義があります。ただし、ラテテが参照する北ソト研究では、それは地面に落ちる物理的な影だけではありません。夢に現れる姿、人格、個性、尊厳とも結びついています。
論文はセリティを、現代社会と伝統社会から現れ、個人や集団の尊厳を高める、倫理的・宗教的・神秘的あるいは形而上学的な諸性質と定義します。
この長い定義には、訳しにくさそのものが表れています。
- 生きている人の人格
- よく考え、よく語る知性
- 親切、寛大さ、歓待、誠実さ
- 他者を尊重し、他者から尊重されること
- 祖先との関係や通過儀礼
- 人を人として際立たせる個性と尊厳
これらが、別々の引き出しに収まっていません。
「影」と訳せば宗教的な含意が見える一方で、日常の倫理が薄くなる。「尊厳」と訳せば社会的な意味は見える一方で、祖先や儀礼との関係が消える。セリティは、一語の翻訳で理解するより、複数の意味が重なる場所として読むほうが正確です。
誰にでもある。それでも差が語られる
論文の冒頭には、一見すると矛盾する二つの説明があります。
一方では、人は人であるからセリティを持つ、とされます。医師や法律家だから持つのではない。貧しい人や過ちを犯した人を含め、人間であることから切り離せないものだというのです。
ところが別の箇所では、「セリティのある人」「セリティの強い人」が語られます。伝統的な集会の場 kgoro で、過去の事例を記憶し、諺を交え、言葉を選んで話せる人。親切で、寛大で、訪れた人を迎え、他者を尊重する人。その人は共同体からも尊重され、セリティが高まると説明されます。
つまり、セリティには二つの水準があります。
人であることに伴う尊厳と、行為と関係のなかで認められる人格です。
前者だけなら、尊厳は生まれながらの所有物になります。後者だけなら、共同体に評価されない人の尊厳を奪う危険があります。セリティは、この緊張を簡単には解消しません。
むしろ問いを残します。
人の尊厳は、誰にも奪えないものなのか。それとも、他者とのあいだで育ち、傷つき、回復するものなのか。
この問いに答えるには、セリティの明るい側面だけを見ていては足りません。次章では、ラテテが設けた三つのカテゴリーを通して、人格、祖先、儀礼、そして他者を害する力まで含む複雑な構造を見ていきます。