知っただけでは、なぜ自由になれないのか
正しい信仰・知識・行為という三つの道から、ジャイナ教が知ることと生きることを切り離さない理由を読み解きます。
何度も後悔してきた癖について、私たちは驚くほど多くを説明できます。
なぜ腹が立ったのか。なぜ相手の言葉を悪く受け取ったのか。なぜ同じ失敗を繰り返したのか。原因を言葉にできたとき、少し自由になった気がします。
ところが、翌日にはまた同じ反応が起きます。
分かっているのに、変わらない。この小さな断絶から、ジャイナ教の第二部を始めます。
三つそろって、初めて道になる
紀元2〜5世紀ごろに成立したと考えられる『タットヴァールタ・スートラ』は、冒頭で解脱への道を三つにまとめます。
- 正しい信仰・見方(サムヤグ・ダルシャナ)
- 正しい知識(サムヤグ・ジュニャーナ)
- 正しい行為(サムヤク・チャーリトラ)
ここでいう「信仰」は、根拠を問わず信じ込むことではありません。何が実在し、何が魂を縛り、何が解放へ向かわせるのかを正しく見る姿勢です。知識は、その実在を取り違えずに知ること。行為は、知った内容に沿って生き方を変えることを指します。
三つは別々の資格ではありません。正しく見ることが知識の向きを定め、知識が行為を導き、行為が見方を確かめます。『タットヴァールタ・スートラ』第1章1節が単数形の「道」として示すのは、この三つが一緒に働く道です。
第一部で扱ったアネーカーンタヴァーダは、物事を一つの見方に閉じないための重要な知恵でした。しかし、相手にも別の見方があると理解しながら、怒りに任せて言葉を投げつけることはできます。認識の慎重さが行為へ移らなければ、魂を縛る流れは続きます。
どの時代のジャイナ教を読むのか
ジャイナ教には一冊だけの聖典があるわけではありません。マハーヴィーラにさかのぼる伝承は、長い時間をかけて教団の中で保存されました。現在伝わるアーガマは主にシュヴェーターンバラ派が聖典として認める文献群であり、ディガンバラ派はその伝承を同じ形では受け入れません。
本シリーズが中心に置く『タットヴァールタ・スートラ』は、両派で重んじられてきたサンスクリットの体系書です。ただし、すべての節を両派が同じように解釈するわけではなく、後代の注釈にも違いがあります。
この区別は細かな但し書きではありません。「ジャイナ教はこう考える」と語るとき、どの文献層と解釈を読んでいるのかを明らかにするために必要です。
第二部で追う一本の道
第二部では、次の順に問いを深めます。
まず、カルマがなぜ「物質」として語られるのかを見ます。次に、そのカルマを含む宇宙を六つの実体から捉えます。そこから、誓戒とタパス、微細な生命にまで及ぶアヒンサー、カルマの遮断と脱落、解脱へと進みます。
現代思想との比較も続けます。ただし、古典を現代思想の古い版として扱うためではありません。同じ場面を前にしたとき、二つの思想が何を問題とし、どこで別の道へ進むのかを見るためです。
最初の問いは、こう言い換えられます。
知ったことは、あなたの見方と行為をどこまで変えたでしょうか。
参考文献
- ウマースヴァーティ『タットヴァールタ・スートラ』第1章1節
- Nathmal Tatia, That Which Is: Tattvārtha Sūtra
- Paul Dundas, The Jains
- Nalini Balbir, "Śvetāmbara canon," JAINpedia