何を知れば、すべてが知られるのか
高い知と低い知、脆い舟、弓矢の比喩から、知識を所有することと知によって変わることの差を読む。
知識の多い人が、知っていないこと
シャウナカという大富豪が、賢者アンギラスのもとを訪れます。彼が尋ねたのは、個別の疑問ではありませんでした。
「何を知れば、これらすべてが知られるのでしょうか」
奇妙な質問です。
植物学を知っても、天文学まで自動的にわかるわけではありません。言語を学んでも、病気の治し方まではわかりません。知識は普通、増やすほど分野が枝分かれします。
それでもシャウナカは、知識の数ではなく、知識を成立させる根を問いました。第一章でシュヴェータケートゥが答えられなかった問いが、終章で戻ってきます。
二種類の知
『ムンダカ・ウパニシャッド』で、アンギラスは知を二つに分けます。
低い知には、四つのヴェーダ、発音、祭式、文法、語源、韻律、天文学などが含まれます。現代の意味で「低俗な知識」と言っているのではありません。当時もっとも尊ばれた学問と聖典そのものが、ここへ入ります。
高い知は、「不滅なるものが知られる知」とされます。
この区別は、情報を軽視するためではありません。低い知を知らなければ、経典を正しく唱え、読み、伝えることさえできません。しかし、経典についての知識をいくら集めても、経典が問う生き方へ自動的に変わるわけではない。
料理本を暗記しても、食事にはなりません。地図に詳しくても、歩いたことにはなりません。
対象について知ることと、その知によって自分の見方が変わることは違う。
「脆い舟」は、知識一般ではない
本文は祭式を「脆い舟」と呼びます。正確には、祭式とその功徳だけを最高のものと考え、それに乗って最終的な安定へ行けると思う態度が批判されます。
ここは重要です。
「知識は岸へ渡る舟で、悟ったら捨てる」という比喩は、仏教の筏の譬えと混ざりやすい表現です。ムンダカが脆い舟と呼ぶのは、知識一般ではなく、結果をもたらす祭式への依存です。
祭式が無意味だとも言っていません。限られた行為から得られる結果は、やはり限られている。永遠でない手段を積み重ねても、それだけで不滅なるものには届かない、と範囲を見極めます。
弓を引く
ムンダカは、知識を捨てる代わりに、別の鮮烈な比喩を置きます。
- ウパニシャッド、またはOMを弓とする。
- 自己を矢とする。
- ブラフマンを標的とする。
- 注意を散らさず、矢を放つ。
弓を持っているだけでは、標的に当たりません。弓について説明できても同じです。弦を引き、身体を整え、標的へ注意を集める必要があります。
知識は所有物ではなく、姿勢と方向を変える道具になります。
六つの章が変えたもの
この連載で出会ったのは、一つの完成した理論ではありませんでした。
第1章では、塩水の実験から、見えないことと存在しないことを区別しました。
第2章では、マイトレーイーの問いとネーティ・ネーティから、知る者を対象として掴む難しさを見ました。
第3章では、土、蜜、川という比喩が、名前と形、由来と帰着を別々に照らしました。
第4章では、覚醒、夢、深い眠りを並べ、今の経験状態だけを自己の全体としない見方を学びました。
第5章では、食、息、心、理解、歓喜を進むブリグが、一つの答えで止まらず、生活と食卓へ戻りました。
そして終章では、知識の量と、知る人が変わることの差に出会いました。
これらは完全に同じ教説ではありません。異なる時代、異なる場面、異なる比喩を持っています。それでも、一つの運動が繰り返されます。
当たり前に使っている「私」「もの」「知る」という言葉を、その成立条件まで問い返す。
古典を現代へ持ってくる
古典を現代へ生かすとき、二つの誘惑があります。
一つは、古典を過去の迷信として片づけること。
もう一つは、量子論、情報理論、心理学などを使い、古典が現代科学をすでに知っていたと飾ることです。
どちらも、古典を読まずに済ませる方法になりえます。
古典の価値は、現代と同じ答えを持っていたことだけにありません。私たちが当然だと思う問いの立て方を、別の角度から壊してくれることにあります。
- 「自分らしさ」は、本当に自分だけで作ったものか。
- 言葉で説明できたことを、相手の全体だと思っていないか。
- 専門知を持つことと、その知にふさわしく生きることは一致しているか。
- 内面を深めるという名目で、身体や食や他者を軽く扱っていないか。
ウパニシャッドは、答えを一つ渡して終わる本ではありません。読者の手に弓を渡し、どこへ矢を向けるのかを問う文献群です。
知識が生活へ戻るとき
ムンダカの高い知を、「難しい知識のさらに上」と考えると、また情報の階段が始まります。
しかし、弓矢の比喩が示すのは、知識の蓄積よりも集中です。何を目標にし、どのように自分を整え、何を手放さずに実行するか。
知ったことで、人を見る目が変わる。食べることへの態度が変わる。自分の失敗を全存在と同一視しなくなる。違う名前を持つ人の下に、共通の条件を見つける。
そのとき知識は、頭の中の所有物ではなく、生活の形になります。
何を知ったかではなく、その知によって何が見えるようになったか。
第一部の最後に残るのは、この問いです。付録:総合図解
以下の三図は、ウパニシャッドを一つの標語へ縮めず、文献、語り方、探究の入口という三つの角度から読み直すためのものです。
図解1:主要五経典の問いの地図
この連載で扱った五つの経典は、同じ結論を繰り返すのではなく、異なる場面から自己と世界を問います。中央の問いから、各経典の対話・比喩・探究へ枝分かれさせています。
図解2:自己を語る三つの方法
ウパニシャッドは、自己を一つの定義で閉じません。肯定的な句、否定、身近な比喩を組み合わせ、どの方法にも固有の力と誤読の危険があることを示します。
図解3:三つの探究は、同じ階段ではない
五つの「より内なる自己」、OMと経験の四部分、高い知と低い知は、同じ一つの体系の段階ではありません。それぞれが、身体、経験、学びという別の入口から自己の問いへ向かいます。
参考文献
- 『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』第6章
- 『ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド』2.3、2.4、4.5
- 『マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド』全12節
- 『タイッティリーヤ・ウパニシャッド』第2章、第3章
- 『ムンダカ・ウパニシャッド』1.1、1.2、2.2
- Patrick Olivelle, The Early Upaniṣads: Annotated Text and Translation
- S. Radhakrishnan, The Principal Upanishads