初期仏教を学ぶ 第二部
3章 / 全5

マーラの声は、誰の声なのか――十の軍勢とソーマーの応答

『スッタニパータ』の精勤経とソーマー経を読み、欲望、恐れ、疑い、名誉欲を名指すことと、それでも残る行為の責任を考えます。

nakano
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初期仏教
マーラ
スッタニパータ
ソーマー
智慧

「もう十分だ。そこまでしなくていい」

この言葉は、相手を救う助言にも、前へ進ませない誘惑にもなります。同じ文章でも、誰が、どの場面で、何のために言うかによって働きが変わるからです。

『スッタニパータ』3.2「精勤経」では、ナムチと呼ばれるマーラが、衰弱した修行者へ近づきます。相手は、悟りを開く前のブッダです。

マーラは、痩せて死に近づいていると心配し、生きるように勧めます。生きていれば功徳を積める。厳しい修行をして何になるのか。その言葉だけを読めば、むしろ合理的な忠告に聞こえます。

善意の形をした妨げ

精勤経の場面を、そのまま現代の健康法にすることはできません。初期仏教の他の資料は、感覚的快楽への耽溺と、自分を痛めつける苦行という二つの極端を離れる中道も語ります。

それでも、この詩が鋭いのは、妨げがいつも露骨な悪意の顔で現れるとは限らないと描くところです。

「命を大切に」という言葉が、ここでは目標を諦めさせるために使われます。言葉が正しいかどうかだけでは、その働きを判断できません。何を守り、何から遠ざけようとしているのかまで見る必要があります。

ブッダは、信、精進、智慧があると答え、マーラの軍勢を数え上げます。

マーラは一人で来ない

精勤経に並ぶのは、一つの衝動ではありません。

  1. 感覚的な欲望。
  2. 不満。
  3. 飢えと渇き。
  4. 渇愛。
  5. 怠惰と眠気。
  6. 恐れ。
  7. 疑い。
  8. 偽善と頑迷。
  9. 利得、名誉、称賛、誤って得た評判。
  10. 自分を持ち上げ、他者を見下すこと。

この並びには意外な広がりがあります。身体の飢えと、社会的な称賛が同じ軍勢に入っています。前へ進めないときだけでなく、成功し、評判を得て、自分を他者より優れていると思ったときにも、修行は崩れうるのです。

マーラの十軍を二列で示す構造図

現在の心理学にも、欲望、回避、恐れ、自己正当化を分析する言葉があります。しかし、マーラの十軍を現代の診断表に置き換えると、精勤経の射程は狭くなります。この詩は心の状態だけでなく、功徳、修行、名誉、他者評価、解脱へ向かう道を一つの戦場に置いているからです。

マーラは外にいる悪魔なのでしょうか。それとも、心の中の働きなのでしょうか。

経典は、話しかけ、去っていく存在としてマーラを描きます。同時に、その軍勢は欲望や恐れとして人の経験に入り込みます。どちらか一方へ決めるより、人を動かす力を対話できる相手として外に出す詩的な仕掛けとして読むと、この場面の面白さが見えてきます。

「女の智慧では届かない」と言われたソーマー

別の経では、マーラは比丘尼ソーマーへ近づきます。

彼女が林で瞑想していると、マーラは、賢者だけが至る境地には女性の「二本指ほどの智慧」では届かないと挑発します。二本指は、米が炊けたかを指で確かめる家事の知識を侮った表現と説明されてきました。

ソーマーは、まず「これは誰の言葉か」と確かめ、マーラだと見抜きます。そして、心がよく定まり、智慧が働き、法を正しく見るとき、女性であることが何の妨げになるのかと問い返します。

さらに彼女は、「私は女だ」「私は男だ」「私は何者かだ」と考える者こそ、マーラが語りかける相手になると答えます。

性別を基準にしたマーラの挑発へソーマーが問い返す対話図

ソーマーは「女性も男性と同じ能力を持つ」という一点だけを主張しているのではありません。性別を固定した自己規定としてつかみ、悟りの可能性をそこから判定する見方そのものをずらしています。

ただし、この詩だけを根拠に、初期仏教が現代的な男女平等をすでに実現していたとは言えません。仏教文献と制度には、女性の出家や地位をめぐる非対称も残っています。その歴史的な緊張の中に、ソーマー本人の強い声が保存されていることが重要です。

名指すことは、免罪符ではない

欲望や恐れを「マーラの声」と呼ぶと、「自分がしたのではない」と責任を外へ移せそうです。しかし精勤経は、そうした使い方を許しません。

ブッダは軍勢を名指したあと、自分の思いを統御し、念を確立し、各地で人を導くと語ります。ソーマーも、マーラだと見抜くだけで終わらず、法を見る自分の立場を言葉にして応答します。

何に動かされているかを見分けることは、行為の責任を消すためではありません。次の行為を選びやすくするためです。

現代への応用(本記事での解釈)

迷ったとき、心の中の声をすぐ本音や性格と決めず、その働きを確かめます。

  • これは身体の疲労や飢えが語っているのか。
  • 失敗への恐れや、自分の能力への疑いか。
  • 利得や称賛を失いたくないのか。
  • 自分を高く見せ、誰かを低く置こうとしていないか。
  • その声に従うと、害は減るのか、増えるのか。

これはマーラの十軍を現代向けの心理テストにしたものではありません。古い詩が、一つに見える迷いの中へ複数の力を見つけたことから作った、本記事の点検です。

次章では、最後の二つの軍勢にも関係する「自分を持ち上げ、他者を低く置くこと」を、社会的な身分の問題から考えます。

参考文献

  • 『スッタニパータ』3.2「精勤経」。
  • 『相応部』5.2「ソーマー経」。
  • 『テーリーガーター』ソーマーに帰される詩。
  • SuttaCentral, Padhānasutta (Snp 3.2).
  • SuttaCentral, Somāsutta (SN 5.2).