「ある観点から」は、逃げ道なのか
サッドヴァーダと七重判断から、断言を弱めるのではなく条件を精密にするジャイナ教の論理を読みます。
「ある意味では、そうです」
この言い方は、ときに責任逃れに聞こえます。賛成か反対かを明らかにせず、どちらへも逃げられる余白を残しているように見えるからです。
ジャイナ教のサッドヴァーダが求める条件づけは、曖昧に話すための技法ではありません。何について、どの条件で、何が成り立つのかを、断言より細かく示すための論理です。
壺は「ある」とも「ない」とも言える
机の上に壺があるとします。
いま、この部屋にあるという点では、壺はあります。昨日の同じ時刻にはまだ窯の中にあったなら、現在の壺はありませんでした。壺という形ではありますが、布という形ではありません。
「壺はある」と「壺はない」を無条件に並べれば矛盾します。時間、場所、形、関係を示せば、二つの言明が別の条件を指していることが分かります。
サッドヴァーダの syāt は、「たぶん」という確率の低さより、「ある点から」「ある条件のもとで」という限定を示します。断言の力を弱めるのではなく、断言が成り立つ範囲を明らかにします。
七重判断は、七つの気分ではない
後代のジャイナ論理学では、条件付きの述べ方を七つに整理します。
- ある点から、それはある。
- ある点から、それはない。
- ある点から、それはあり、かつない。
- ある点から、それは言い表せない。
- ある点から、それはあり、かつ言い表せない。
- ある点から、それはなく、かつ言い表せない。
- ある点から、それはあり、なく、かつ言い表せない。
三番目以降を読むと、論理矛盾の肯定に見えるかもしれません。しかし、「ある」と「ない」は同じ条件・同じ時点・同じ意味で同時に述べられるのではありません。また「言い表せない」は、何も語れないという沈黙ではなく、相反する様態を一度の単純な言明に収めきれないことを示します。
後代の論理学が作った精密な接続
8世紀ごろの論理学者アカランカは、アネーカーンタヴァーダ、ナヤ、サッドヴァーダの関係を体系化しました。『ラギーヤストラヤ』第62偈では、個別のナヤを部分的な叙述、サッドヴァーダを全体的な叙述として対比します。
ここで文献の時代差が大切になります。『タットヴァールタ・スートラ』にはプラマーナと七つのナヤが記されていますが、サッドヴァーダの完成した関係図をそのまま示すわけではありません。ジャイナ哲学は、何世紀にもわたる他学派との論争の中で道具を磨きました。
この歴史を知ると、古代の一人の賢者がすべてを完成させたという物語より面白いものが見えてきます。伝統は、同じ問いを守りながら、批判に答えるために論理を作り直してきたのです。
ウィトゲンシュタインとの比較:文脈をどう捉えるか
ウィトゲンシュタインは『哲学探究』で、言葉の意味を、その語が生活の中でどう使われるかに結びつけました。「ゲーム」という語に全事例へ共通する一つの本質を探すより、重なり合う類似を見るという発想も示します。
両者が共有する問いは、言葉を文脈から切り離しても意味が保たれるのか、という点です。しかし、答えの背景は異なります。ウィトゲンシュタインは言語使用と哲学的混乱を問題にします。ジャイナ教のサッドヴァーダは、多面的な実在、妥当な知、全知、解脱を含む体系の中で言明を扱います。
一方を他方の先取りと呼ぶと、この違いが消えます。二つを並べる価値は、同じ言葉でも、何を正確にしようとしているのかが異なると分かることにあります。
現代への応用(本記事での解釈)
断言の前に「たぶん」を付ける必要はありません。代わりに、条件を一つ具体化します。
- いつの時点について話しているか。
- 誰との関係から見ているか。
- どの性質を問題にしているか。
- 何を根拠として確かめたか。
条件が明らかになるほど、反論されにくくなるとは限りません。しかし、何が食い違っているのかは見えやすくなります。
次章では、こうした慎重さを現代の認知心理学と比較し、似ている問いと違う仕組みを確かめます。
参考文献
- ウマースヴァーティ『タットヴァールタ・スートラ』第1章6節・33節
- アカランカ『ラギーヤストラヤ』第62偈
- Harshita Mruthinti Kamath, "In Some Ways: Syādvāda as the Synthesis of Anekāntavāda and Nayavāda in Akalaṅka’s Philosophical Treatises"
- Ludwig Wittgenstein, Philosophical Investigations, §§23, 43, 65-67