クルアーンを学ぶ 第一部
4章 / 全5

富は、誰のものとして流れるのか――取引・利子・施し

クルアーンが富の量ではなく、取引、債務、施し、配分の関係をどのように問うのかを読み解きます。

nakano
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イスラーム
クルアーン
経済倫理

口座にある数字を見ると、それが自分の努力だけで生まれ、自分の判断だけで使えるものに思えることがあります。

けれども、その富は、働く場所、取引相手、法、通貨、家族、教育、道路、過去から受け継いだ制度なしには成立しません。所有は個人に帰属していても、富が生まれ、動く過程には多くの人がいます。

クルアーンの経済倫理が問うのは、富を持つこと自体より、どのような関係の中で増え、止まり、渡るのかです。

取引と利子を、同じものにしない

第2章275節は、「取引とは利子をとるのと同じだ」という主張を退け、取引は許され、利子をとることは禁じられたと述べます。

この区別は、利益を得る行為をすべて否定するものではありません。取引には品物や労働の交換があり、双方が危険と成果に関わります。一方、利子をめぐる一連の節は、債権者が債務者の苦境から一方的に利益を確保する関係へ厳しい目を向けます。

そのため第2章280節は、負債者が苦境にあるなら、余裕ができるまで猶予するよう求めます。債権を放棄して慈善とする方がよいとも続きます。禁止だけでなく、返せない人をどう扱うかまで書かれていることが大切です。

なお、リバーを現代のあらゆる金利とどこまで同一視するかは、イスラーム法学の長い議論を要します。この記事では、その結論を一つに決めません。ここで確認できるのは、取引と利子を区別し、債務関係の中の不正を問う本文の方向です。

ザカートとサダカは、同じ「善意」ではない

クルアーンでは、定められた喜捨であるザカートと、自発的な施しを含むサダカが語られます。

第9章60節は、施しの配分先として貧しい人、困窮する人、施しの事務を担う人などを挙げます。ここで施しは、気が向いたときの美談だけではありません。受け取る側、配る側、共同体の役割がある制度的な行為です。

一方、第2章261節以降は、他者のために費やすことを、実を増やす種の比喩で語ります。同時に、施したことを言い立てて相手を傷つける行為も戒めます。渡した金額だけでなく、渡す人と受け取る人の尊厳が問われています。

「富者だけを巡らない」の文脈

第59章7節には、富が裕福な者の間だけを巡らないようにする、という印象的な言葉があります。ただし、この節が直接扱うのは一般的な税制ではなく、戦いを経て得られた財の配分です。使徒、近親者、孤児、貧しい者、旅人へどう配るかという具体的な文脈があります。

その文脈を外して、現代の経済政策を一節から直接導くことはできません。それでも、共同体に入った富が、すでに富を持つ者だけで閉じないよう配分先を定める論理は読めます。

クルアーンの経済倫理は、次の四つを一つの制度名にまとめません。

  • 正当な取引を認める。
  • 債務者の苦境を利用しない。
  • 定められた施しを共同体の義務にする。
  • 富が一部だけを循環しないよう配分を問う。

異なる場面に異なる規律を置くことで、富の流れ全体を倫理の対象にしています。

取引、利子、施し、配分から富の流れの倫理を読む図

ロールズの格差原理との対比

政治哲学者ジョン・ロールズは、社会や経済の不平等をすべて禁じたわけではありません。彼の格差原理は、不平等が認められるとしても、それが最も不利な人々の最大の利益になるよう制度を組むことを求めます。才能や生まれた家庭は本人の功績ではないのだから、社会の協働から生まれる利益は、最も条件の悪い人にも届かなければならない。ここにロールズの鋭さがあります。

クルアーンとロールズは、富の偏在を当然とせず、弱い立場の人を制度の中心から見る点で響き合います。しかし、同じ答えではありません。

ロールズは、自由で平等な市民が共有できる公正な制度原理を構想します。クルアーンは、富を神から与えられたものとして捉え、礼拝、喜捨、債務、慈善を神への応答として結びます。格差原理からザカートが導かれるのでも、ザカートが格差原理を先取りしたのでもありません。

比較して見えてくるのは、富を「持つ権利」だけでなく、「他者との関係をどう作る力か」として考える二つの道です。

クルアーンの経済倫理とロールズの格差原理を比較する図

現代への応用として、支出や利益を見るとき、三つの問いを置けます。

  • この利益の危険と負担を、誰が引き受けているか。
  • 支払えない人の苦境を、利益の源にしていないか。
  • この富は、すでに持つ人の間だけを巡っていないか。

クルアーンが用意するのは、単一の経済モデルではありません。富の流れから人間関係を読み取るための、複数の厳しい視線です。