バガヴァッド・ギーターを学ぶ 第一部
2章 / 全4

「果実を求めるな」は、何を禁じているのか

第2章47節を起点に、行為・果実・不作為・供犠・カルマの束縛を読み、ストア派との類似と差異を整理します。

nakano
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「結果を手放せ」と聞くと、二つの反応が起こります。

一つは、気持ちが楽になるという反応です。もう一つは、そんなことをしたら無責任になる、という反発です。

どちらも自然です。問題は、第2章47節を「結果は自分で制御できないから、気にしなくてよい」という仕事術だけに縮めると、『ギーター』が問うているものの半分以上が消えてしまうことです。


四つの命令を、途中で切らない

第2章47節は、四つの句でできています。

karmaṇy evādhikāras te mā phaleṣu kadācana mā karma-phala-hetur bhūr mā te saṅgo 'stv akarmaṇi

おおよその意味は、次のようになります。

  1. あなたが関わるべきなのは行為である
  2. 果実を自分のものとして求めてはならない
  3. 果実を行為の動機にしてはならない
  4. だからといって、不作為に執着してはならない

最後の一句が重要です。結果に執着しないことは、結果が怖いから行為を避けることではありません。アルジュナにとっての不作為は、戦場を離れることです。クリシュナは「果実を求めるな」と「行為をやめるな」を同じ節で結びます。

ここで使われる adhikāra は、現代語の「完全にコントロールできる範囲」と同じではありません。資格、関与すべき領域、なすべきことへの権能といった含みを持ちます。行為にも身体、他者、状況が関わる以上、行為のすべてが意志の支配下にあるわけではありません。

したがって第2章47節の中心は、世界を「制御可能/制御不能」に分類することより、何を行為の動機にし、行為の果実を誰のものと考えるかにあります。


行為は、なぜ人を束縛するのか

第3章5節では、誰も一瞬たりとも完全な不作為には留まれないと語られます。身体を止めても、自然から生じる諸性質に動かされ、思考や欲望を含む行為は続きます。

それでは、行為しながら行為に縛られないことは可能でしょうか。

第3章9節は、供犠のためでない行為が人をカルマの束縛に結ぶと述べます。古典注釈では、供犠は神、特にヴィシュヌへの礼拝・奉献として解されます。第3章30節も、すべての行為をクリシュナに委ね、期待と所有意識を離れて行為せよと語ります。

ここで問題になるのは、果実を「自分が得るべきもの」として求めることと、行為を「私がしたこと」としてつかむことです。第3章27節は、自然の諸性質によって行為がなされているのに、自我に惑わされた人は「私が作者だ」と考える、と語ります。

この「束縛」は、生まれては死ぬことを繰り返す生存にも関わります。第2章51節は、行為の果実を捨てた知者が「誕生の束縛」から解き放たれ、苦しみのない境地へ至ると述べます。行為とその果実に結ばれた生き方から、解脱へ向かうことが見据えられているのです。

身近な経験に引き寄せれば、成果を「私の価値の証明」にしてしまう場面を考えられます。成功すれば自分を誇り、失敗すれば自分全体を否定したくなる。これは、行為や果実を自分のものとしてつかむことを考えるための生活上の例です。原典は、そのような心の揺れに加え、生死の反復からの自由を問うています。

カルマ・ヨーガ(果実を自分のものとして求めず、行為を神に捧げる実践)は、行為量を減らす技法ではありません。行為を「私の成果を生む手段」から「捧げられた行為」へ変えることで、本来は束縛を生む行為を自由への道に転じます。第2章50節がヨーガを「行為における巧みさ」と呼ぶのは、この転換のためです。

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成否に振り回されず、なすべきことへ戻る

望んだ結果が得られなかったとき、それまでの行為まで無意味に感じられることがあります。成否に心を預けず、なお行為を続けるには、何をよりどころにすればよいのでしょうか。古代ストア派の哲学者エピクテトスも、この問題を考えました。

提要』第1節で彼は、判断や、何かを求めたり避けたりする働きなど「われわれ次第のもの」と、身体・財産・評判・地位など「われわれ次第ではないもの」を分けます。現代の例に置き換えるなら、昇進を逃したことと、昇進のために不正を選ぶことの区別です。前者には他者の判断や組織の事情が関わります。後者では、自分が何をよしとして選ぶかが問われます。地位を得ることにすべてを賭ければ、それを与える相手に自分の選択まで支配されてしまいます。

第4節には、入浴に出かけるという身近な例があります。浴場では、水をかけられたり、押されたりするかもしれない。そこで、入浴することとともに、自分の判断と選択を自然にかなうものに保つことも目的にしておくのです。予定が妨げられたときにも、どう振る舞うかという課題は手元に残ります。

ここでいう「自然にかなう」とは、自分を世界の秩序の一部として捉え、その中でふさわしく振る舞うことです。第30節では家族・隣人・市民としての関係に応じた務めを、第31節では神々が世界を善く治めるという信頼と、その秩序を受け入れる姿勢を説きます。判断の自由を守ることは、そうした世界の中で自分の務めを果たす生き方なのです。

ここから『ギーター』第2章47節へ戻ると、「果実を求めるな」と「不作為に執着するな」が、一続きの呼びかけとして読めます。望むものを得られるかどうかだけに行為の意味を託せば、得られそうにないときには、なすべきことまで放棄したくなる。両者は、その場でもなお引き受けられる行為へ目を戻させます。

エピクテトスが自然にかなう判断と選択をよりどころにするのに対して、クリシュナは第3章30節で、行為を自分に委ねるようアルジュナに語ります。アルジュナが行為を続ける根拠は、戦士としてのダルマと、クリシュナへの奉献にあります。行為を神へ捧げ、果実を「私が得るべきもの」とする執着を離れることが、カルマの束縛からの解放へつながるのです。第2章48節の成功と不成功に対する平静も、この行為の仕方とともに求められています。

現代の仕事に引き寄せるなら、作業の前に次の三つを分けられます。神への奉献をそのまま仕事上の奉仕に置き換えるのではなく、ここでは行為と自分の取り分を見分けるための問いとして用います。

  1. 果たすべき行為: いま具体的に何をするのか
  2. 求めている果実: 評価、勝利、報酬、安心のうち、何に心を預けているか
  3. 行為を返す先: 自分の名声ではなく、誰・何への奉仕として行うのか

たとえば、感謝されない仕事でも、誰かの生活を支えるために必要なことがあります。評価を欲する気持ちと、その仕事の必要を分けてみる。そうすると、果実への執着を離すことと、行為を続けることを、第2章47節が同時に求める理由が身近になります。