無執着は、なぜ無関心ではないのか
世界を維持する行為、行為の中の不作為、慈悲という原典の論理から、無執着と他者への応答が両立する条件を考えます。
「果実への執着を捨てる」と聞くと、一つの疑いが生まれます。
結果を求めないなら、失敗しても気にしないのか。苦しむ人がいても、心を乱さないことを優先するのか。無執着は、責任から離れるための美しい言い訳にならないか。
この疑いは、『ギーター』を読むうえで欠かせません。ただし答えは、無執着に現代的な優しさを付け足すことではなく、原典の中にある「世界を保つための行為」を見るところから始まります。
知者も、世界のために行為する
第3章20節は、ジャナカ王たちが行為によって完成に至ったと述べたあと、loka-saṃgraha を見て行為せよと続けます。
loka-saṃgraha は、世界や人々をまとめ保つこと、社会が崩れないよう支えること、といった意味を持ちます。第3章21節では、優れた人の行いを他の人々が模倣するとされ、第25節では、知者も人々を支えるために無執着に行為すべきだと語られます。
ここでは、精神的に自由になった人が世界から退くのではありません。自分にはもう得るものがなくても、自分の行為が他者の方向を形づくるから、行為を続けます。
ただし、この「世界の維持」も無条件に現代の公共善と同じではありません。『ギーター』が守ろうとする世界には、ダルマと社会的役割の秩序が含まれます。その秩序を現代の私たちがそのまま肯定できるかは、別に問わなければなりません。
それでも、無執着が私的な平静だけを目指すのではなく、他者が生きる世界への責任を含むことは確かです。
動いている人と、行為に縛られる人
第4章18節は、行為の中に不作為を見て、不作為の中に行為を見る者を賢者と呼びます。
動いているのに、行為していない。何もしていないのに、行為している。身体の動きだけを思い浮かべると、不思議な言葉です。ここでは、前章で読んだ「行為はなぜ人を束縛するのか」という問いが手がかりになります。
注釈者シュリーダラが示す読みの一つでは、神への礼拝として行う行為は、知へと導き、束縛を生まないという意味で「不作為」と呼ばれます。一方、定められた務めを行わなければ、その不履行によって束縛が生じる。それが「不作為の中の行為」です。活動の有無と、束縛の有無を分けて読むのです。
この読みでは、行為をやめることだけで自由になれるとは言えません。アルジュナは、親族を殺す罪を恐れて弓を置きました。しかし、戦士としてなすべきことを放棄するなら、その停止もまた彼を縛りうる。反対に、ダルマにかなう行為を神への奉献として担うなら、活動を続けながら自由へ向かう道が開かれます。
日常でも、何かに夢中になって自分を忘れることはあります。ただ、その集中の前後には名声や報酬を強く求めているかもしれません。第4章18節をこの注釈に沿って読むと、問われるのは一時の没入感よりも、なすべき行為をどのように担い、それが束縛とどう関わるかだと分かります。
三つの倫理は、何を行為の根拠にするのか
感謝されるから人を助けるのなら、感謝されなくなったときにも助け続けられるでしょうか。私的な見返りから離れて行為するという問題は、『ギーター』の奉献を考える手がかりになります。カントの義務の倫理と、シュバイツァーの「生への畏敬」にも、この問題への応答があります。
カントは『道徳形而上学原論』第1節で、義務にかなう行為と、義務からなされる行為を分けます。記事の例でいえば、評判を守るために約束を守る場合、行為は義務にかなっています。しかし、道徳的価値を支えるのは、得られる便益よりも、それをなすべきだと認めて行為する意志です。彼はこの根拠を、理性が認める法則への尊敬に求めます。
第2節で示されるのが、自分の行為原理を、誰もが採用する普遍的な法則として意志できるか、という問いです。カント自身の例では、お金に困ったとき、返すつもりもない借金の約束をしてよいかを考えます。誰もがその原理を使えば、約束は信用されず、約束によって借りること自体ができなくなる。自分に都合のよい例外を認めずに、行為の原理を点検するわけです。
見返りと、行為を支える根拠を分けると、『ギーター』の「果実を求めずに行為する」も理解しやすくなります。報酬という動機を外したあとに、なお行為を支えるものがあるのです。クリシュナが第3章30節で示すのは、すべての行為を自分へ委ね、期待と所有意識を離れて戦うことでした。カントは理性的な主体が従う普遍的な法則を問います。『ギーター』では、アルジュナ固有のダルマを神への奉献として担うことが、カルマからの解放に結びつきます。
では、自分が見返りを求めていなくても、その行為が生命を傷つける場合はどうでしょうか。シュバイツァーの「生への畏敬」は、自分も生きようとする生命であり、周囲にも同じく生きようとする生命があるという経験から始まります。そこから彼は、自分の生を大切にするように、他の生命を保ち、育む責任を考えます。関心は人間同士にとどまらず、動物や植物、微小な生き物にまで及びます。感謝や見返りを返せる相手かどうかで、その生命への配慮が決まるわけではありません。
同時に彼は、人が食物を得るために動植物の生命を奪い、自分を守るために細菌を殺すことも挙げています。生きることには、他の生命への加害が伴う。そのため、生命への畏敬は、何も傷つけずに済むという安心ではなく、避けがたい加害においても責任を失わない姿勢になります。必要な犠牲かを一件ごとに問い、避けられる苦痛を減らすことが求められるのです。
アルジュナの戦場では、この問題が切迫しています。クリシュナはダルマと奉献のもとで戦うよう促し、シュバイツァーの立場からは、そこで傷つく生命への責任が問われ続けます。この緊張を残したまま『ギーター』第12章13-14節を開くと、理想の信愛者は、すべての生き物を憎まず、友愛と慈悲をもち、所有意識と自我意識を離れた人として描かれています。
この描写には、見返りを求めないことと、生き物を気にかけることが一緒にあります。カントの説明からは、報酬を外しても行為の根拠が残ることを、シュバイツァーからは、私の利益を離れるほど配慮の対象が広がりうることを考えられます。第12章の信愛者は、神へ心と知性を捧げながら、生き物に友愛と慈悲を向けます。手放すのは他者への関心ではなく、「私のもの」にしようとする執着なのだと、この二節が具体的に示しているのです。
相手を思うことと、感謝を求めることを分ける
ここから、記事の生活例として誰かを支える場面を考えてみます。相手の回復を願う気持ちと、「私が救ったのだから感謝されるべきだ」という思いは、一人の中にも混じり合います。相手が思いどおりに応じないとき、後者が強ければ、援助は相手を従わせる手段にもなってしまいます。
そこで、行為の動機を確かめながら、相手がいま必要としているものにも注意を戻します。感謝を得ることと相手を支えることを分ければ、望んだ反応が返らないときにも、続けるべき援助や変えるべき方法を考えられます。
現代への応用として、行為の前後に次の三点を確かめられます。
- 誰のための行為か: 相手の必要より、自分の評価を優先していないか
- 何を所有しようとしているか: 成功、感謝、正しさを自分のものにしようとしていないか
- 結果が得られなくても続けるべきか: 世界や他者を支える行為として、なお必要か
第12章13-14節が並べる慈悲と無所有は、こうして一つの行為の中でも考えられます。相手を気にかけながら、その人の応答や行為の成果を自分の取り分にしない。思いどおりにならない世界に関わり続けるために、無執着が必要になるのです。