自分のダルマは、自由か拘束か
自分の性質や社会的役割に応じた固有の務めと、社会秩序との緊張を原典から読み、役割を引き受け直す条件を考えます。
「自分のダルマを生きよ」という言葉は、力を与えます。
ダルマとは、人や社会を支える務め・秩序・生き方の規範を広く指す言葉です。
他人の成功をまねるのではなく、自分が引き受けるべき仕事を果たす。迷いの多い時代には、頼もしい指針です。
しかし同じ言葉は、人を縛ることもできます。生まれた場所、家族、性別、階層、職業によって「これがお前の役割だ」と言われたら、ダルマは自己実現ではなく、秩序への服従になります。
『ギーター』のスヴァダルマ(自分固有のダルマ)には、この力と危うさの両方があります。現代に活かすなら、都合のよい部分だけを取り出さず、その緊張を引き受ける必要があります。
原典のスヴァダルマは、社会的役割から離れていない
第3章35節は、不完全であっても自分のダルマは、よく行われた他者のダルマより優れていると述べます。自分のダルマのうちに死ぬことさえよく、他者のダルマは危険だ、とまで言います。
ここでアルジュナのスヴァダルマは、抽象的な「自分らしさ」ではありません。第2章31節で明示されるように、クシャトリヤ、戦士として戦うことです。
第18章41-44節では、ブラーフマナ、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラの行為が、それぞれの性質から生じるグナ(人の性質や行為の傾向を形づくる三つの要素)と結びつけて配分されます。第18章47節も、生来の性質によって定められた行為を行うと述べます。
したがって、スヴァダルマを「その瞬間に自分が自由に選んだ使命」とだけ訳すことはできません。原典では、個人の性質、社会的役割、宗教的規範が重なっています。
他人の完成した姿と、自分の不完全な仕事
第3章35節を現代の仕事に引き寄せると、他人との比較に気を取られ、自分が担う仕事を見失う場面を考えられます。
私たちは、他人の完成した姿だけを見て、その人の役割を借りようとします。向いている仕事、背負っている関係、積み重ねてきた技能の違いを無視し、成功の外形だけを模倣する。そのとき、自分の現実に必要な行為が手薄になります。
第18章48節は、どの行為も煙に覆われた火のように欠点を含むと語り、それを理由に生来の行為を捨てないよう促します。原典では、自分の性質に根ざした務めを続ける根拠となる比喩です。
この比喩を現代の役割選択に用いるなら、欠点のない仕事を探すことと、不正のある仕事を改めることを分けて考えられます。次の問いは、そのためにこの記事が組み立てたものです。
- その役割を捨てたいのは、不正に抵抗するためか、欠点のない場所へ逃げるためか
- 他人の道がよく見えるのは、その人が支払っている代価を見ていないからではないか
- 自分の性質、関係、技能から生じる責任を、誰かの理想像で覆っていないか
ダルマよりも最後に置かれるもの
『ギーター』は、社会的役割を絶対化したまま終わりません。
第18章66節で、クリシュナはすべてのダルマを離れ、ただ自分一人に帰依せよと語ります。古典注釈には解釈の幅がありますが、少なくとも、個々の規範を機械的に守ることが最終地点ではないという緊張が生まれます。
自分の行為を通して神を礼拝することと、最後にはダルマそのものを手放して神に帰依すること。『ギーター』は、役割を果たす道と、役割を超える帰依を同じ作品の中に置きます。
この二重性があるから、スヴァダルマは単なる適職診断にも、身分秩序の標語にも収まりません。
自分が望むことと、自分に求められること
他人の役割をまねるのでも、与えられた役割を黙って受け入れるのでもなく、自分が担うべきことをどう見つけるか。この問いを、精神科医ヴィクトール・フランクルは、生きる意味の問題として考えました。
フランクルは、生きる意味を、その人が置かれた具体的な状況から考えます。彼が挙げるのは、チェスの名人に、盤面を示さず「最善の一手は何か」と尋ねる例です。どんな対局でも最善となる一手はありません。同じように、人生の意味も、誰にでもいつでも当てはまる答えを探すだけでは見えてこない。その人、その時、その状況で、何に応答する必要があるかが問われます。
そこで、人生に何を期待するかという問いは、人生から自分に何が求められているかという問いへ変わります。果たすべき仕事や関わる相手に、責任ある行為で答えるのです。フランクルがロゴセラピーと呼ぶ、意味を中心に据えた心理療法でも、何に、誰に責任を負うかの判断は本人に残されます。社会、良心、神のいずれに責任を感じるかを、医師が自分の価値観で決めてしまうことは避けられます。
この見方とスヴァダルマが共有するのは、自分の望みだけでなく、自分がすでに関わる世界から、なすべきことを考える姿勢です。フランクルは、一人ひとりがその場で見いだす固有の意味と責任を重視します。『ギーター』では、その人の性質と社会的役割に結びつくダルマがあり、その務めを神へ捧げる道が示されます。アルジュナには戦士としての務めが語られますが、フランクルの説明では、何を担うべきかを、その人の具体的な状況に即して見いだしていくことになります。
ここから第3章35節の「不完全でも自分のダルマを」という言葉を読むと、他者よりうまくできるかという成績の比較から、自分が何を担う立場にあるかへと、注意が移ります。他者が見事に果たした務めをまねるだけでは、自分の務めを果たしたことにはならない。原典ではそれが、戦場のアルジュナへ向けられています。「自分の」という言葉は、好きな仕事を所有することより、自分に関わる務めを引き受けることとして読めるのです。
現代への応用:役割を四つの問いで点検する
記事の応用例として、組織から記録の改ざんを求められた場面を考えてみます。仕事を正確に担う責任と、上司の命令に従うことが衝突しています。その場で必要な行為は、改ざんを拒み、被害を防ぎ、記録を扱う仕組みを改めることかもしれません。自分に求められることを考えるには、役職名だけでなく、その行為が誰に何をもたらすかを見る必要があります。
スヴァダルマとフランクルの比較を踏まえ、現代の役割を点検するために、次の四つを問えます。これはこの記事での応用です。
- 事実: いま、誰が何に困り、どの仕事が放置されているか
- 関係: 自分は誰に対して、どのような約束と責任を負っているか
- 適性: 自分の性質、技能、立場だからこそ担えることは何か
- 批判: その役割は不正を維持していないか。拒否や変更こそ必要ではないか
四つを合わせると、続けるべき仕事と、変えるべき命令や仕組みを分けやすくなります。記録の改ざんを拒む場合にも、正確な記録を残す仕事や、それを必要とする人への責任は残ります。役割を改めることが、その責任を果たす方法になる場合もあるのです。
煙に覆われた火を、どう扱うか
第一部は、何をしても守りたいものを傷つけるように見え、アルジュナが弓を置く場面から始まりました。彼に必要だったのは、望む結果を得る方法だけでなく、葛藤を抱えたまま何を根拠に行為できるかという答えでした。
第18章46節では、人は自分の行為によって、すべての存在の源であり世界に遍在する神を礼拝し、完成へ向かうと語られます。自分の務めは、成功して名声を得るためだけの手段ではなく、神に向き合う場になります。その道の中に、第48節の、あらゆる企ては煙に覆われた火のように欠点を含むという言葉があります。欠点のある行為を担うことと、宗教的な完成を目指すことが、一つの道として結ばれるのです。
現代への問いとしてこの比喩を受け取るなら、まず、自分が嫌がっている「煙」は何かを確かめられます。経験が浅くてうまくできないことと、他者を傷つける不正な仕組みがあることでは、必要な対応が違います。前者には学びながら仕事を続けることが、後者には仕組みを変えたり、その役割を離れたりすることが必要になりえます。
完全な自分や、欠点のない仕事が現れるまで待つあいだにも、目の前の務めは残ります。何を支え、何を改める必要があるのか。その具体的な行為へ戻るとき、「不完全でも自分のダルマを」という言葉は、他人の完成した姿を眺め続ける私たちにも問いかけてきます。
参考文献
- 『バガヴァッド・ギーター』第1-5章、第12章、第18章
- シュリーダラ『スボーディニー』
- マドゥスーダナ・サラスヴァティー『グーダールタ・ディーピカー』
- エピクテトス『提要』第1・4・30・31節
- イマヌエル・カント『道徳形而上学原論』第1・第2節(Ak 4:397-401、4:421-424)
- アルベルト・シュバイツァー Civilization and Ethics 第21章「The Ethic of Reverence for Life」
- ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』
- Viktor E. Frankl, Man's Search for Meaning, Part II, "The Meaning of Life", "The Essence of Existence"(英語本文抜粋)
付録:総合図解
図解1:アルジュナの危機から、カルマ・ヨーガへ
図解2:同じ行為が、束縛にも自由にもなる
行為と果実への向き合い方を、二つのまとまりで比べます。各まとまりの中の項目は、その行為を特徴づける姿勢です。第2章51節が語る解放には、生死の反復を離れることも含まれます。