心の状態は、私そのものなのか——三つのグナと束縛
サットヴァ、ラジャス、タマスという三つのグナが、人をどう動かし、何によって束縛するのかを読みます。
同じ人なのに、なぜこれほど違うのか
昨日は、驚くほど仕事が進みました。考えがよくまとまり、人にも穏やかに接することができました。
ところが今日は、通知が一つ来るたびに気が散ります。何かを始めても、別のことが気になる。夕方になると、動けなかった自分を責め始めます。
私たちは、この差をつい性格の良し悪しに結びつけてしまいます。
「昨日の私は良かった。今日の私はだめだ」
『バガヴァッド・ギーター』第14章は、別の見方を示します。人の心と行為には、プラクリティ(自然)から生じる三つのグナ、サットヴァ、ラジャス、タマスが働いているというのです。
ただし、グナは「今日の気分」を三色に塗り分ける心理テストではありません。ギーターが問うのは、三つの働きが身体をもつ主体を、どのようにつなぎ止めるのかです。
三つとも、人を動かし、人を縛る
第14章5節は、三つのグナが身体のうちにある「不滅の主体」を束縛すると述べます。続く6節から8節では、それぞれが異なる仕方で人を縛ると説明されます。
サットヴァ(純質)は、明るさ、調和、知と結びつきます。しかし、それだけではありません。心地よい幸福や「私は分かっている」という知への執着によって、人を縛るとも語られます。
ラジャス(激質)は、渇望と活動を生みます。何かを得たい、先へ進みたいという力は行為を起こしますが、成果と行為そのものへの執着にもなります。
タマス(暗質)は、理解を覆い、不注意、怠惰、眠りへ傾けます。休息そのものが悪いのではありません。何が起きているかを見えにくくし、なすべきことから遠ざける働きが問題になります。
ここで面白いのは、サットヴァだけが善で、残り二つが悪だという単純な表ではないことです。三つはすべて自然の働きであり、三つとも人を束縛しうるのです。穏やかで明晰な状態でさえ、「この状態を失いたくない」という執着になれば自由ではありません。
三つは、交代しながら前へ出る
第14章10節は、サットヴァがラジャスとタマスを抑えて優勢になることもあれば、ラジャスやタマスが他の二つを抑えることもあると語ります。
そのため、昨日と今日の違いを、すぐに人格全体の違いと考える必要はありません。強く前へ出ている働きが変われば、見える世界も、欲しくなるものも、行為の速さも変わります。
ただし、「今はタマスだから仕方がない」と責任を消すための分類でもありません。第14章は、グナの徴候を示したあと、その働きが現れても憎まず、消えても求めない者の姿を描きます。さらに、その三つを超えるとはどういうことかを語ります。
観察は免罪符ではなく、何に動かされているかを見誤らないための入口なのです。
「冷静な私」から、何がこぼれ落ちるのか
穏やかな自分は受け入れられるのに、怒っている自分は認めたくない。そのように好ましい自己像を守るとき、実際に自分を動かすものを見落とすことがあります。この問題を考えた一人が、スイスの精神科医カール・グスタフ・ユングです。
ユングのいう「影」とは、自分の人格のうち、認めにくく、十分に意識されていない側面です。『アイオーン』では、その側面を自分にも実在するものとして認めることが、自己を知るために必要だと述べます。自分についての説明を増やすだけでなく、その説明から外してきたものを見る仕事なのです。
たとえば、自分はいつも冷静だと思う人が、同僚の苛立ちにはとても敏感だとします。同僚の言い方に問題があったとしても、自分自身の競争心や苛立ちが、その受け取り方を強めているかもしれません。ユングが「投影」と呼ぶのは、自分では気づいていない心の内容を、相手の側にあるものとして経験する働きです。相手の行動と、自分の反応に関わるものとを分けて確かめることで、関係の見え方が変わります。
ここでの面白さは、嫌な一面を消して立派になることよりも、それも自分に関わるものとして認めることが、自己理解を広げる点にあります。ユングは、そうして認めた性質を意識的な人格へ取り入れる問題を考えます。
この問いを持ってギーター第14章6節へ戻ると、サットヴァが「知への執着」によって縛るという言葉が身近になります。記事の冒頭なら、「私は冷静で、よく分かっている」という自己像への固執が、自分の焦りや鈍さを見る妨げになる場面です。好ましい状態も、それを自分の価値の保証にすると、失うことへの恐れを生みます。
ギーターが説明するのは、心と身体を含む自然の働きと、それにつなぎ止められる主体との関係です。そのため問いは、認めにくい感情だけでなく、幸福や明晰さへの執着にも及びます。何が自分に起きているかを知ることと、それを「私そのもの」として握りしめることは違う。 三グナを読むときに、この区別が効いてきます。
目標は、いつもサットヴァでいることではない
もし三グナを自己管理の道具としてだけ読むなら、目標は「いつもサットヴァでいること」になりそうです。
けれども第14章20節では、身体を生じさせる三グナを超えた者が、生老死の苦から解放されると説かれます。さらに26節では、揺るがないバクティ(信愛)によってクリシュナに仕える者が三グナを超えると語られます。
つまり、ギーターの道筋は次のようになります。
- 三つの働きと、その徴候を知る
- どれか一つを「私そのもの」と決めない
- サットヴァを含め、快・知・活動・停滞への執着を見抜く
- 三つを超える道を、平静とバクティの中に求める
この構造を図にすると、三グナは性格診断の三つの箱ではなく、いずれも束縛へつながりうる三本の経路として見えてきます。
現代への応用(本記事での解釈)
日常では、グナを自分や他人に貼る診断名にしないことが大切です。「あの人はタマスだ」と人間そのものを分類すれば、グナの変化を読むはずの概念が、固定的なレッテルになってしまいます。
使うなら、行為の直前に短く問い直す程度がよいでしょう。
- 今、判断を明るくしているものは何か
- 今、結果を急がせている渇望は何か
- 今、見るべき事実を覆っている鈍さは何か
これは原典にある三秒習慣ではなく、三グナの区別から作った本記事の応用です。答えが出なくても構いません。状態を人格の判決に変えず、行為を選び直す余地を残すための問いです。
心の状態と、心を動かす構造
三グナを知ると、心の揺れをただ自責する必要はなくなります。しかし、責任まで消えるわけではありません。
「何が私を動かしているのか」と問えるようになったとき、次の問題が現れます。
そもそも、「私が行為者だ」と考えるとき、この「私」は何を指しているのでしょうか。
次章では、ギーター第3章27節のアハンカーラを手がかりに、行為者という感覚を分解します。
参考文献
- 『バガヴァッド・ギーター』第14章、第17章
- C. G. Jung, Aion: Researches into the Phenomenology of the Self, Collected Works 9, Part II, Chapter II “The Shadow”, §§13–19