「私がした」とは、どういうことか——行為とアハンカーラ
行為はグナによってなされるのに、なぜ人は『私が行為者だ』と思うのか。ギーター第3章27節から責任と自由を考えます。
怒りは、自分で始めたのか
会議で、思いがけない批判を受けたとします。
胸が熱くなり、相手の言葉が終わる前に反論する。あとで振り返ると、「なぜ、あんな言い方をしたのだろう」と思います。
自分で話したことに違いはありません。それでも、怒りが生じた瞬間から言葉が出るまでのすべてを、落ち着いた「私」が設計していたとは言いにくい。
では、「私が怒った」「私が言った」というとき、その「私」は何を指しているのでしょうか。
「私が行為者だ」という思い
『バガヴァッド・ギーター』第3章27節は、強い言葉でこの問題を示します。ここでは次のように訳します。
行為はすべて、プラクリティのグナによってなされる。けれども、アハンカーラに惑わされた者は「私が行為者だ」と考える。
アハンカーラは、日常語の「自尊心が強い」「わがままだ」という意味だけではありません。身体、感覚、思考、行為の働きをまとめて、「これが私だ」「私が動かした」と結びつける働きです。
プラクリティは身体や心を含む自然の根源、グナはその自然を構成し、さまざまな働きとして現れる三つの性質です。アハンカーラに惑わされるとは、そうした身体や心の働きに自分を重ね、自分こそが行為者だと思うことです。3章27節が問題にするのは、この自己理解であり、それが行為の何秒前、何秒後に生じるかではありません。
会議の場面で考えてみましょう。反論するまでには、相手の声、言葉の意味、過去の記憶、身体の緊張、怒り、話し方の癖など、多くの条件が重なっています。それでも、反論しようと身構えるときにも、実際に話しているときにも、「私が相手を言い負かす」という思いにとらわれることがあります。あとで「私が言った」と振り返ることも含め、行為を自分だけの働きとして捉える見方を、ここでは考えたいのです。
ギーターが崩そうとしているのは、行為が無数の条件から生じているのに、孤立した自我だけが最初から最後まで支配したと考える見方です。
「グナがした」は、言い訳になるのか
ここで、すぐに反論したくなります。
「自然が行為したのなら、何をしても自分の責任ではないのか」
しかし、ギーター全体はその方向へ進みません。3章28節では、真理を知る者は「グナがグナの対象に働く」と知って執着しないと語られますが、同じ章でアルジュナは行為を捨てるのではなく、執着を離れて行為するよう求められます。
最終章でも、クリシュナは教えを一方的に押しつけません。18章63節で、語られたことを十分に考えたうえで「望むように行え」とアルジュナへ選択を返します。
行為の条件を知ることと、責任から逃げることは別です。
これを現代の責任の問題へ引きつけるなら、「私だけがすべてを始めた」という思い込みを緩めると、むしろ責任を細かく見られるようになります。怒りが自然に生じたとしても、言葉を止める余地はなかったか。発言後に訂正できるか。同じ条件を繰り返さないために何を変えられるか。責任は、万能な自我を想定することではなく、関われる部分へ具体的に応答することとして考え直せます。
注釈者たちも、同じ説明をしていない
第3章27節には、古くから複数の読みがあります。
シュリーダラやマドゥスーダナの注釈は、プラクリティから生じた身体や感覚器官が働いているのに、人がそこへ「私がしている」という行為者性を重ねてしまう、と説明します。一方、バラデーヴァの注釈は、個人の行為への関与まで否定しません。行為は個人だけで完結せず、身体・感覚器官と、それらを動かす神の働きによって成り立つため、個人だけを唯一の行為者とは呼べないと考えます。
この違いは重要です。「ギーターは自由意志を否定した」と一言で片づけてしまうと、本文と注釈が残した緊張が消えてしまいます。
ギーターが繰り返し問うのは、行為するか、しないかだけではありません。何に動かされ、何へ執着し、誰のために行為するのかです。
「動かそう」と思うとき、何が始まっているのか
自分で行為したという実感から、その行為を生んだ働きのすべてが分かるでしょうか。この疑問を、意図の自覚と身体の動きを分けて考える手がかりになるのが、神経科学者ベンジャミン・リベットらの1983年の実験です。
参加者は、時計の針のように回る光点を見ながら、自分の好きなタイミングで指や手首を曲げました。そして、最初に「今、動かしたい」と感じたときの光点の位置を覚え、運動後に報告しました。研究者は、この報告から求めた意図の自覚時刻(W)を、筋肉の電気活動を記録する筋電図による運動開始の基準時刻と比べました。さらに頭皮上で脳波を記録し、40回の試行を運動開始にそろえて平均すると、その前からゆっくり変化する電位が現れます。これが準備電位(RP)です。
意図の自覚は本人の経験、運動は筋肉の活動、準備電位は脳波に現れる変化です。この三つを別々に調べたところ、自発性を重視した試行群では、平均の準備電位は運動の約550ミリ秒前、報告された意図の自覚は約200ミリ秒前に位置しました。本人が「動かそう」と感じたときには、運動に先立つ脳の変化がすでに観測されていたのです。なお、あとで行うのは時刻の報告であり、報告された意図の自覚そのものは運動より前にあります。Libetほか(1983)
私たちはふつう、「まず私が動かそうと思い、それから身体が動いた」と説明します。実験の面白さは、その実感には現れない過程を、同じ時間軸の上へ取り出したことにあります。リベットらは、随意運動を始める脳の過程が意識に先行しうると解釈しました。「自分で始めた」という身近な経験にも、本人が気づいている以上の働きが含まれています。その意外さが、自覚だけを行為の説明の出発点にしてよいのかと問いかけます。
では、準備電位が始まった瞬間に、脳はもう決定を終えていたのでしょうか。ここでは、平均した波形の読み方が問題になります。シュルガーらは2012年、脳活動の自発的な揺らぎを蓄積し、一定の境目に達すると運動が起こるモデルを提示しました。このモデルでは、運動が起きた時点にそろえて過去の波形を平均すると、その時点へ向かう緩やかな立ち上がりが現れます。つまり、準備電位の早い立ち上がりは、各回の「決定完了」の時刻をそのまま示すとは限りません。運動までの待ち時間や脳波を説明するこのモデルは、波形の始まりと決定を区別して考える具体的な理由を与えます。Schurgerほか(2012)
意図の時刻にも、測り方に応じた幅があります。光点の位置を思い出す方法では、注意の向け方や記憶を介して経験を時刻に置き換えます。また、参加者はどの運動をするかをすでに教えられており、その場で選ぶのは主に「いつ動くか」です。約束を守るか、批判にどう答えるかという選択には、理由や結果を比較する過程が加わります。この実験が直接調べた範囲は、そうした熟慮全体ではなく、単純な自発運動に先立つ脳活動と、報告可能な意図の自覚との時間関係です。
この区別を持って3章27節へ戻ると、「私が行為者だ」という言葉の何が問われているかが見えやすくなります。行為を自覚することと、その成立を自分だけで説明できることは別です。ギーターは、身体や心を含む自然の働きに自分を重ね、自分こそが行為者だと思うあり方をアハンカーラの問題として語ります。ここでの焦点は、意図の発生時刻を突き止めることから、行為する自分をどう理解するかへ移ります。
続く3章28節では、グナとその行為の区分を知る者は、「グナがグナに働いている」と見て執着を離れます。感覚器官がその対象に関わることも、自然の働きとして捉えるのです。そして3章30節でクリシュナは、すべての行為をクリシュナ自身に委ね、自己へ心を向け、期待と所有の思い、心の熱を離れて「戦え」とアルジュナに命じます。「私だけが行為を生む」という捉え方をほどくことが、行為を捨てるのでなく、執着を離れて行為することへつながります。 3章27節は、この28節と30節への流れのなかで読めます。
場を知る者と、最高の目撃者
第13章へ進むと、ギーターは身体を「場(クシェートラ)」、それを知る者を「場を知る者(クシェートラジュニャ)」と呼びます。さらに、クリシュナ自身をすべての場における「場を知る者」として知るよう語ります。
ここでは、内側に静かな観察者を一人見つければ終わり、という単純な構図にはなりません。
- 身体・感覚・心理が働く場
- その経験を知る個々の主体
- すべての場に関わるクリシュナ
少なくとも三つの関係が開かれています。注釈伝統によって、この関係を同一性として読むか、個の自己と最高者の区別を保つかも異なります。
そのため、「本当の私は純粋な観察者で、行為とは無関係だ」と急いで結論づけることはできません。ギーターの観照は、世界から退くためではなく、執着を離れた行為へ戻るためにあります。
現代への応用(本記事での解釈)
日常で「私がした」と思ったとき、主語を消す必要はありません。代わりに、行為を一度だけ分解してみます。
- 何がきっかけだったか
- 身体に何が起きたか
- どんな記憶や習慣が働いたか
- どこで選び直す余地があったか
- 今から何に応答できるか
この分解は原典の修行法そのものではなく、3章27節を現代の日常へ移した本記事の応用です。目的は「私には責任がない」と言うことではありません。行為のすべてを自我の功績や罪へまとめず、修正できる箇所を見つけることです。
万能な主語を手放したあと
アハンカーラを疑うと、「私が全部やった」という重さは減ります。しかし、行為を見ている者とは誰か、という問いは残ります。
次章では、身体という場、場を知る者、そしてすべての場を知るクリシュナの関係をたどります。そこで「知ること」は、情報を増やすことから、謙虚さ、行為、信愛を含む生き方へ変わっていきます。
参考文献
- 『バガヴァッド・ギーター』第3章27〜30節、第13章1〜23節、第18章63節
- 『バガヴァッド・ギーター』3.27 原文・英訳・シャンカラ注釈英訳、3.28 原文・英訳、3.30 原文・英訳(Gita Supersite)
- 『バガヴァッド・ギーター』3.27 四注釈サンスクリット本文
- Benjamin Libet, Curtis A. Gleason, Elwood W. Wright, Dennis K. Pearl, “Time of conscious intention to act in relation to onset of cerebral activity (readiness-potential). The unconscious initiation of a freely voluntary act,” Brain 106(3), 623–642, 1983(公開本文)
- Aaron Schurger, Jacobo D. Sitt, Stanislas Dehaene, “An accumulator model for spontaneous neural activity prior to self-initiated movement,” PNAS 109(42), E2904–E2913, 2012