バガヴァッド・ギーターを学ぶ 第二部
3章 / 全4

知る者を、誰が知るのか——場・知識・信愛

身体という場、それを知る者、すべての場を知るクリシュナ。ギーター第12・13章から、知識とバクティの関係を読みます。

nakano
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バガヴァッド・ギーター
バクティ

観察できれば、それで自由なのか

怒りに気づく。焦りに名前をつける。「いま、ラジャスが強い」と一歩引いて眺める。

この観察は役に立ちます。けれども、しばらく続けると奇妙なことが起きます。

「今日は冷静に観察できた」

「あの人は自分の感情を観察できていない」

観察する能力そのものが、いつしか新しい誇りになっていきます。感情から離れたはずの場所に、今度は「よく見えている私」が立っているのです。

『バガヴァッド・ギーター』第13章が語る「場を知る者」は、感情を一歩引いて眺めるだけの観察者ではありません。問いは、身体という場から、それを知る者へ、さらに、すべての場における「場を知る者」としてのクリシュナへと広がります。

身体は「場」である

第13章1節は、身体をクシェートラ(場)と呼び、それを知る者をクシェートラジュニャ(場を知る者)と呼びます。

畑には、土、水、種、季節、耕す人の働きが集まります。同じように身体という場には、感覚、欲望、苦楽、思考、記憶、行為が現れます。

「私は怒っている」と言うと、怒りが自己全体を覆います。「この場に怒りが生じている」と見ると、怒りは経験の一部になります。この区別は、経験を否定せず、経験と自己を完全に同一視しないために働きます。

しかし、次の2節が構図を変えます。

クリシュナは、「すべての場における場を知る者として、私をも知れ」と語ります。

問いは「私の内側に観察者がいる」で終わりません。個々の身体を知る者と、すべての場に関わるクリシュナは、どのような関係にあるのか。ここでギーターは、内省の技術から形而上学と信愛の問題へ移ります。

「知識」は、頭の中だけにない

さらに意外なのは、第13章が「知識」と呼ぶものです。

そこには、謙虚さ、見せかけのなさ、非暴力、忍耐、誠実さ、師への奉仕、感覚の制御、執着から離れること、そしてクリシュナへの揺るがないバクティなどが並びます。

私たちは知識を、正しい説明を持っている状態だと考えがちです。ところがギーターでは、知る者の姿勢と生き方が知識に含まれます。

身体と自己の違いを説明できても、他人を見下しているなら、その知は、ギーターがここで「知識」と呼ぶ生き方にはまだ届いていません。第13章では、すべての場を知る者としてクリシュナを知ることと、謙虚さや非暴力が同じ「知識」の中に置かれています。知ることは、人との接し方から切り離されていないのです。

ここで、知と行為と信愛は別々の階段ではなくなります。何を知るかは、どう行為するか、何へ心を向けるかと結びついています。

心を向けるために、いくつもの入口がある

バクティは、神への信愛、献身、参与を表す言葉です。第12章では、アルジュナが、人格をもつクリシュナへ心を向ける者と、形をもたない不滅のものを求める者のどちらが優れたヨーガの実践者かを尋ねます。

クリシュナは、自分へ心を定め、深い信頼をもって礼拝する者を高く評価します。同時に、形をもたないものを求める者もクリシュナへ至ると述べます。ただし、身体をもつ者にとって、その道は困難が大きいとも語ります。

続く6〜7節では、すべての行為をクリシュナへ委ね、一心に礼拝する者を、クリシュナ自身が死と輪廻の海から救い出すと語ります。実践する人の側だけでなく、救い出す側の働きも描かれています。その約束に続いて、8〜11節には、実践の難しさに応じた複数の入口があります。

  1. 心と知性をクリシュナへ置く
  2. それが難しければ、繰り返し心を向ける修習を行う
  3. それも難しければ、クリシュナのために行為する
  4. それも難しければ、行為の果実を手放す

心を定めるのが難しい人にも、反復や日々の行為を通じて関わる道が開かれています。四つは全員が順番に上る階段というより、今できることから信愛を実践するための選択肢です。

第14章26節では、揺るがないバクティによってクリシュナに仕える者が三グナを超えるとされます。

第18章54〜55節では、ブラフマンの境地と最高のバクティ、そしてクリシュナを真実に知ることが連続して語られます。

知識の終わりに愛が突然始まるのではありません。知ることが、関係を結ぶことへ深まるのです。

信じる心まで、「私の業績」にするのか

よく観察できることが誇りになるなら、熱心に実践することも「これほど努力した私」という誇りになりそうです。実践を続けながら、その実践を自分の手柄として握りしめずにいられるのでしょうか。この問いを、日本の浄土教で考えた親鸞の「他力」から眺めてみます。

親鸞がよりどころとしたのは、阿弥陀仏の本願です。本願とは、迷い苦しむ者を浄土へ迎え、仏のさとりへ導こうとする誓いです。『教行信証』の行巻で、他力はこの本願の力として説明されます。「他力」を、日常語の「誰か任せ」からではなく、何が人を救う根拠になるのかという問いから読むと、意味がつかみやすくなります。

親鸞のいう信心とは、本願に疑いなくまかせる心です。ここで意外なのは、その信心さえ、実践者が自分の力だけで作るものとはされないことです。信巻では、行も信も阿弥陀仏からの回向によって成り立つと語られます。ここでの回向とは、仏の功徳が人々へ差し向けられ、救いを実現する働きです。信じる心も、阿弥陀仏の名を称える念仏も、その働きの中で受け取られます。

たとえば「これだけ念仏を称えたのだから、その分だけ救いに近づいた」と数えるなら、救いの根拠を自分の成績へ戻してしまいます。これは親鸞の考えを日常的な採点の感覚へ置き換えた例です。他力をよりどころとすると、問われるのは実績の多さよりも、その実績を救いの条件として差し出す自分の構えになります。

この見方からギーター第12章を読み返すと、8〜11節の実践だけでなく、その直前の「私が救い出す」というクリシュナの約束にも目が向きます。心を向け、修習し、行為を捧げる人は、自分だけで救いを製作する孤立した努力者として描かれてはいません。救う働きと、その呼びかけに応える実践とが、一緒に置かれているのです。

親鸞が詳しく問うのは、浄土への往生と成仏を支える本願、その本願から人へ届く信心と念仏です。ギーターでは、クリシュナへの信愛が、知ること、心を整えること、なすべき行為とその果実を捧げることへ広がります。それぞれの実践を、その救いの根拠との関係で読むと、「熱心に実践するか、努力をやめるか」という二択より多くのものが見えてきます。

すると、第13章が「知識」の中に謙虚さとバクティを置いた理由も見え直します。知ることを自分の成績として誇るだけなら、知識は競争の道具になります。クリシュナへ心を向け、他者への非暴力や誠実さを伴って生きることまで含めて読むと、何を知ったかと、その知を誰との関係で生きるかが結びつきます。冒頭の「よく見えている私」に足りなかったのは、この関係への開かれ方です。

場・知る者・最高者

第13章の構造を整理すると、「観察者である私」だけでは足りない理由が見えてきます。

場・場を知る者・すべての場を知るクリシュナ

身体という場を知ることで、経験との同一化は緩みます。しかし、場を知る者も孤立した主権者ではありません。すべての場に関わるクリシュナとの関係が開かれたとき、知ることはバクティへ接続します。

現代への応用(本記事での解釈)

何かをよく観察できた日に、最後に一つだけ問いを足します。この理解は、次に会う人への接し方をどう変えるでしょうか。

答えが「自分の正しさを説明する」だけなら、知識はまだ自我の所有物かもしれません。相手の事情を聞く、言葉を一つ控える、引き受けた仕事を果たす。理解が関係と行為を変えるところまで届くかを確かめます。

これは原典に記されたチェックリストではありません。第13章が謙虚さや非暴力やバクティを「知識」に含めることから引き出した、本記事での応用です。

委ねる前に、考え抜く

バクティは、考えることをやめる合図ではありません。

物語の最後でクリシュナは、アルジュナに教えを十分に考えるよう促します。そのうえで帰依を語り、アルジュナは行為へ戻ります。

次章では、戦場の具体的な葛藤へ戻り、「すべてのダルマを捨て、私だけをよりどころとせよ」という言葉を、その前後と注釈の違いを含めて読みます。

参考文献

第13章の節番号は、身体を「場」と呼ぶ節を第1節とする数え方に従います(GRETIL所収本文)。冒頭にアルジュナの問いを置き、以降を一節ずつ後へ数える版もあります。