権力を縛るために、制度が必要になる
権力分立を三つの箱の暗記ではなく、権力の動きを別の権力が止められる配置として読む。
一つの権力が、禁止する規則を作る。
その権力が、違反した人の逮捕を命じる。
そして、その逮捕が正しかったかどうかも、同じ権力が裁く。
これは特定の事件の再現ではありません。権力が一か所に集まるとはどういうことかを確かめるための思考実験です。
ここで、権力者が善人か悪人かは決定的ではありません。最初は慎重で、公共の利益を考えていた人かもしれない。それでも、自分の命令を自分で審査し、自分の判断を自分で正当化できるなら、誤りを止めるものは本人の良心しかありません。
危機だから仕方ない。
秩序のためだから必要だ。
民衆はまだ未熟だから任せられない。
反対意見は社会を混乱させる。
権力は、このような理由を使って自分の範囲を広げます。その理由がいつも嘘だとは限りません。現実に危機があり、迅速な決定が必要なこともあります。だからこそ、善悪の判定を権力者の人格だけへ預けることが危ういのです。
モンテスキューは、法や政治制度を、一つの理想像から演繹するだけではなく、異なる国、政体、歴史、慣習を比較しながら考えました。彼はイングランドに滞在し、その政治制度の観察を『法の精神』へ生かします。
そこで重視されたのが、権力が権力を抑える配置でした。
法律を作る力。
法律を実行する力。
争いを裁く力。
これらが同じ手に集まれば、権力は自分に都合のよい法律を作り、自分で執行し、自分で正当化できます。反対に、異なる主体がそれぞれの力を持ち、相手の決定を止めたり、見直させたりできれば、恣意的な支配は難しくなります。
ただし、モンテスキューの議論を、現在の「立法・行政・司法」という三つの箱へそのまま押し込めると、大切な点を見失います。
彼が描いたのは、完全に孤立した三つの機関ではありません。立法府が課税を通じて執行権力を抑え、執行権力が拒否権を持ち、立法府の内部でも複数の院が互いを止める。重要なのは、単に分けることではなく、一つの意思だけで権力が最後まで走り切れないようにすることでした。
ここでの自由は、心理的な解放感ではありません。
法に従って暮らしているかぎり、国家の力が突然自分へ向けられないと見込めること。何が禁じられているかを知ることができ、特定の人の気分でルールが変わらないこと。モンテスキューにとって、自由は安全の感覚と結びついていました。
この自由観は、華やかではありません。
よい指導者がすべてを解決してくれる、という物語の方が分かりやすい。選挙で立派な人を選べばよい、専門家に任せればよい、正しい理念を共有すればよい。その期待には、いつも人の顔があります。
制度には顔がありません。手続、権限、期限、記録、異議申立て。地味で、遅く、ときに煩わしい。
しかし、その煩わしさには意味があります。
権力を止める。決定を遅らせる。理由を記録させる。別の機関へ訴える。反対意見が消されるまでの時間を稼ぐ。
制度の価値は、常に正しい決定を生み出すことではありません。誤った決定を一度で確定させないことにあります。
啓蒙思想の強さは、人間への信頼と不信を同時に持つ点にあります。
人間には理性がある。だから、公開の議論によって社会を変えられる。
しかし、人間は自分の利益を正義と取り違え、権力を手放したくなくなる。だから、別の人の理性が介入できる配置が必要になる。
もちろん、制度があれば自由が保証されるわけでもありません。議会は多数派に偏り、裁判には費用がかかり、報道や学問も誤ります。制度の入口へ立てる人が身分、財産、教育によって限られていれば、権力は別の形で偏ります。
それでも、制度がなければ、批判の足場そのものが失われます。
啓蒙思想は、権力をなくす思想ではありません。権力を分け、止め、理由を示させ、批判できる状態へ置き直す思想です。
では、その制度が誤り、偏見を処罰へ変えてしまったとき、誰が判断をやり直させるのでしょうか。
次章では、一つの誤った判決が、文書と読者によって公共の問題へ変わっていく過程を見ます。