良知:すでに働いている道徳知
王陽明のいう良知を、静かな直感や万能の答えではなく、具体的な関係の中で働き、私意に遮られうる道徳的な知として読む。
良知は、秘密の声ではありません。
王陽明は『伝習録』巻上で、良知を説明するとき、神秘的な体験ではなく、ごく身近な関係を挙げました。
見父、自然知孝。見兄、自然知弟。見孺子入井、自然知惻隱。
父を見れば孝を知り、兄を見れば悌を知り、幼い子が井戸へ落ちそうになれば惻隠を知る。ここでいう「知」は、教科書の定義を思い出すことではありません。相手と場面に触れたとき、心がすでに応答を始めていることです。
良知は、情報より先に働く
誰かが不当に責められている。自分の言葉が相手を傷つけた。誰も見ていないところで、約束をごまかそうとしている。
そうした場面で、私たちはいつも正しく判断できるわけではありません。それでも、説明を組み立てる前に、何かが引っかかることがあります。相手の痛みがこちらへ入り込み、自分の都合だけでは終われなくなる。
この記事では、この働きを「道徳知」と呼びます。ただし、良知を現代の「良心」や「直感」と完全に同一視するわけではありません。王陽明の良知は、孟子の惻隠や是非を知る働きを背景に持ち、具体的な人倫の中で語られています。
良知は、あらゆる問題の答えを一瞬で出す万能の装置でもありません。
王陽明自身、聖人が礼楽や名物のすべてを最初から知っているわけではなく、知らないことは人に問うと述べています。良知があることと、事実・技術・制度について何でも知っていることは別です。
「私意障礙」という現実
良知の説明で見落としてはいけないのは、その直後です。
王陽明は、常人には「私意障礙」があるため、致知・格物の工夫が必要だと続けます。良知はすべての人にある。しかし、私的な思いに遮られうる。
ここに陽明学の厳しさがあります。
自分が損をするかもしれない。面倒に巻き込まれたくない。相手を責める方が気持ちよい。自分の決断を正しいと思いたい。そうした思いは、良知を消すというより、良知の上にもっともらしい説明を重ねます。
「忙しいから仕方ない」
「みんなもやっている」
「相手にも問題がある」
「これは正義の怒りだ」
言い訳が巧みになるほど、私たちは自分の良知を聞いているつもりで、私意を聞くことができます。
良知は、制度の代わりではない
現代社会では、法律、規則、データ、専門知が判断を支えています。良知を語るからといって、それらを捨てることはできません。
良知が問うのは、制度を使う人の心です。
規則上は許されても、誰かの尊厳を削っていないか。数字は整っていても、現場の負担を見えなくしていないか。反対に、善意のつもりで規則や事実を無視し、他者を危険にさらしていないか。
制度は良知を不要にせず、良知も制度を不要にしません。良知は、制度が自動的には答えない責任を引き受ける一方、自分の確信を事実や他者の声から隔離しない働きでなければなりません。
だから良知の思想は、「人間はもともと善だから大丈夫」という慰めではありません。
あなたの心には、すでに知る働きがある。しかし、その働きは私意に遮られうる。知らなかったふりも、正しさを独占することもできない。
この二重の緊張が、良知を生きた概念にしています。