陽明学を学ぶ 第一部
4章 / 全7

致良知:良知を現実に届かせる

致良知を、心の中の納得を行動へ押し出す標語ではなく、具体的な事の中で私意を省察し、良知を尽くす修養として読み直す。

nakano
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良知は、心の中に保管するものではありません。

王陽明は『伝習録』の「答顧東橋書」で、自らの格物をこう説明しました。

致吾心之良知於事事物物。

自分の心の良知を、事事物物に致す。

この記事の題名にある「良知を現実に届かせる」は、この言葉を現代の読者へ開くための意訳です。ただし、「思ったことをすぐ行動へ移す」という意味ではありません。中心にあるのは、具体的な事に向き合い、その事において私意を取り除き、良知を尽くすことです。

学問は、仕事の外にあるのか

『伝習録』巻下には、一人の官吏が登場します。

彼は、役所の文書と訴訟の処理があまりに煩雑で、学問をする時間がないとこぼしました。王陽明は、役所の仕事を離れて空中で学問せよと教えたことはない、と答えます。

訴訟を扱うとき、相手の態度に腹を立てて判断していないか。話し方が巧みだから好意を持っていないか。誰かの頼みを受けて判断を曲げていないか。忙しさを理由に、いい加減に処理していないか。

そうした偏りは「只爾自知」、自分自身が知っている。そこを細かく省察し、心にわずかな偏りもないようにする。それが格物致知であり、文書と訴訟の間こそ実学だと王陽明は語ります。

この場面では、良知と行為の間に、単純な矢印はありません。

事に向き合う。そこで怒りや保身に気づく。偏りを正す。相手と状況に応じて判断する。その結果をもう一度省みる。

致良知は、現実へ飛び出す一回の決断というより、事の中で心を正し続ける運動です。

「届かせる」は、相手を動かすことではない

良知を現実に届かせる、と聞くと、自分の正しさを相手へ届けることのように見えるかもしれません。

しかし、致良知の中心は他人を説得することではありません。まず、自分の意念に混じる偏りを取り除くことです。相手が自分の主張を受け入れたかどうかだけで、良知が実現したとは判定できません。

むしろ、次のような問いが必要になります。

  • 自分の怒りや好悪が、判断を曲げていないか。
  • 面倒や損失を避けるために、事実を見ないふりをしていないか。
  • 相手の具体的な事情を、こちらの物語で塗りつぶしていないか。
  • その事にふさわしい応答を、実際に引き受けているか。

これも原典の文をそのまま並べたものではありません。官吏の問答に示された修養を、現代の判断へ移した問いです。

今日の場面へ移すなら

たとえば、部下に不当な負担がかかっていると気づいたとします。

そこで「かわいそうだ」と思うだけでも、「すぐ上司を糾弾すべきだ」と勢い込むだけでも、まだ事に即していません。仕事の配分を確認する。本人の声を聞く。自分の判断に思い込みがないか確かめる。そのうえで、配分を直す、相談する、自分が引き受ける、という具体的な応答を選ぶ。

あるいは、自分が誰かに冷たい言葉を投げたと気づいたとき、心の中で反省して終わるのではなく、謝る。相手の反応を受け止める。次の場面で言葉を変える。

これらは王陽明が直接挙げた例ではなく、この記事による現代への応用です。共通するのは、良知を抽象的な善意のまま所有せず、目の前の事に即して確かめることです。

致良知は、英雄的な行動を求める言葉ではありません。

いま関わっている事から逃げず、その事の中で私意を省察し、ふさわしい応答を尽くすことです。

事の中で良知を致す循環