致良知:良知を現実に届かせる
致良知を、心の中の納得を行動へ押し出す標語ではなく、具体的な事の中で私意を省察し、良知を尽くす修養として読み直す。
良知は、心の中に保管するものではありません。
王陽明は『伝習録』の「答顧東橋書」で、自らの格物をこう説明しました。
致吾心之良知於事事物物。
自分の心の良知を、事事物物に致す。
この記事の題名にある「良知を現実に届かせる」は、この言葉を現代の読者へ開くための意訳です。ただし、「思ったことをすぐ行動へ移す」という意味ではありません。中心にあるのは、具体的な事に向き合い、その事において私意を取り除き、良知を尽くすことです。
学問は、仕事の外にあるのか
『伝習録』巻下には、一人の官吏が登場します。
彼は、役所の文書と訴訟の処理があまりに煩雑で、学問をする時間がないとこぼしました。王陽明は、役所の仕事を離れて空中で学問せよと教えたことはない、と答えます。
訴訟を扱うとき、相手の態度に腹を立てて判断していないか。話し方が巧みだから好意を持っていないか。誰かの頼みを受けて判断を曲げていないか。忙しさを理由に、いい加減に処理していないか。
そうした偏りは「只爾自知」、自分自身が知っている。そこを細かく省察し、心にわずかな偏りもないようにする。それが格物致知であり、文書と訴訟の間こそ実学だと王陽明は語ります。
この場面では、良知と行為の間に、単純な矢印はありません。
事に向き合う。そこで怒りや保身に気づく。偏りを正す。相手と状況に応じて判断する。その結果をもう一度省みる。
致良知は、現実へ飛び出す一回の決断というより、事の中で心を正し続ける運動です。
「届かせる」は、相手を動かすことではない
良知を現実に届かせる、と聞くと、自分の正しさを相手へ届けることのように見えるかもしれません。
しかし、致良知の中心は他人を説得することではありません。まず、自分の意念に混じる偏りを取り除くことです。相手が自分の主張を受け入れたかどうかだけで、良知が実現したとは判定できません。
むしろ、次のような問いが必要になります。
- 自分の怒りや好悪が、判断を曲げていないか。
- 面倒や損失を避けるために、事実を見ないふりをしていないか。
- 相手の具体的な事情を、こちらの物語で塗りつぶしていないか。
- その事にふさわしい応答を、実際に引き受けているか。
これも原典の文をそのまま並べたものではありません。官吏の問答に示された修養を、現代の判断へ移した問いです。
今日の場面へ移すなら
たとえば、部下に不当な負担がかかっていると気づいたとします。
そこで「かわいそうだ」と思うだけでも、「すぐ上司を糾弾すべきだ」と勢い込むだけでも、まだ事に即していません。仕事の配分を確認する。本人の声を聞く。自分の判断に思い込みがないか確かめる。そのうえで、配分を直す、相談する、自分が引き受ける、という具体的な応答を選ぶ。
あるいは、自分が誰かに冷たい言葉を投げたと気づいたとき、心の中で反省して終わるのではなく、謝る。相手の反応を受け止める。次の場面で言葉を変える。
これらは王陽明が直接挙げた例ではなく、この記事による現代への応用です。共通するのは、良知を抽象的な善意のまま所有せず、目の前の事に即して確かめることです。
致良知は、英雄的な行動を求める言葉ではありません。
いま関わっている事から逃げず、その事の中で私意を省察し、ふさわしい応答を尽くすことです。