陽明学を学ぶ 第一部
5章 / 全7

知行合一:知と行はどこで一つなのか

知行合一を行動礼賛から切り離し、知は行の始、行は知の成という王陽明の言葉から、道徳的な知と実践の相互性を読む。

nakano
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「知っているのに、できない」。

この言葉を聞いた王陽明は、「では、あなたは何を知っているのか」と問い返すでしょう。

知行合一は、できない人を叱る標語ではありません。「知っている」という言葉の使い方そのものを揺さぶる思想です。

知識と行動の優劣ではない

『伝習録』巻上で、弟子の徐愛は王陽明に反論します。親に孝行すべきだと知りながら、孝行できない人はいる。それなら知と行は、やはり二つではないか。

王陽明は答えます。

未有知而不行者。知而不行、只是未知。

知って行わない者はいない。知って行わないなら、まだ知っていない。

この一節だけを切り取ると、苛烈な精神論に見えます。しかし、続く説明を読むと、王陽明が単に行動の量を増やそうとしているのではないことが分かります。

悪臭を本当に嗅げば、すでにそれを嫌う。痛みを知るとは、自分が痛みを経験していることだ。知ることと応答することは、あとから二本の線を結ぶようには分けられない。

そして王陽明は、知と行の関係をこう言い直します。

知是行之始、行是知之成。

知は行の始まりであり、行は知の成就である。

知識と行動のどちらが偉いかではありません。知は行の方向を明らかにし、行は知を具体的にする。両者は一つの働きの異なる局面です。

朱熹も行を軽んじてはいなかった

ここで、第2章の比較が効いてきます。

朱熹も『朱子語類』で、知と行は互いに必要だと述べています。先後では知が先、軽重では行が重い。つまり、朱熹と王陽明の違いは、「知識か行動か」という価値観の対立ではありません。

王陽明が強く拒んだのは、知の仕事を先に終え、行の仕事をあとで始めるという二段階です。

王陽明にとって、問うこと、考えること、辨ずることも、現実から切り離されないかぎり行の一部です。反対に、考えずに動くだけなら「冥行妄作」、暗いままみだりに行うことになります。

知行合一は、考える時間を短くする思想ではありません。

考えることを現実から逃げる口実にせず、行うことを考えない口実にしない思想です。

一念が動くところから、行は始まる

『伝習録』巻下で王陽明は、知行合一を唱えた理由をさらに鋭く語ります。

人は、不善な思いが起きても、まだ外に行動していないから問題ではないと思う。そこで王陽明は、「一念発動処、便即是行了」と言います。一つの念が動くところは、すでに行である。

この見方では、行は外から観察できる成果だけではありません。

相手を見下す思いを育てること。都合の悪い事実から目をそらすこと。言い訳を胸の中で組み立てること。そうした意念の方向も、すでに自分を形づくる行です。

知行合一の厳しさは、派手な行動を要求するところではなく、「まだ何もしていない」という逃げ道を心の中に残さないところにあります。

すべての知識を一つにしない

ただし、この議論をあらゆる知識へ広げると、無理が生じます。

外国語の単語を知っていても使えないことはあります。病気の危険を理解していても、依存、恐れ、経済状況、権力関係のために行動できないこともあります。王陽明が中心的に論じる「知」は、善悪を知り、自らの意と行を正す道徳的な知です。

だから知行合一を、行動できない人の苦しみを無視して責める言葉にしてはいけません。

むしろ問うべきなのは、その人の意志の弱さだけではありません。

何が知と行を切り離しているのか。恐れか、習慣か、制度か、孤立か。必要なのは決意か、助けか、環境の変更か。

知行合一は、すべてを個人の根性へ押し戻す思想ではありません。知が現実に触れるための条件を、具体的に問うための出発点にもなります。

知と行の相互性