渇愛(タンハー) — 苦を集める渇き
nakano
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概要
渇愛(かつあい、パーリ語: taṇhā)は、四聖諦の集諦で、苦の起源として示される渇きです。
快い経験を得たい、不快な経験を消したい、自分や世界をある形で存続させたい、あるいは消滅させたいという運動を含みます。
三つの渇愛
『相応部』56.11は、渇愛を三つに分けます。
- 感覚的快楽への渇愛。
- 存在し続けることへの渇愛。
- 存在しないこと・消滅への渇愛。
渇愛は、欲求一般をすべて悪とする語ではありません。道を育てようとする意欲まで否定すれば、修行は成立しません。問題は、変化する経験を「これによって私は完成する」「これさえ消えれば救われる」とつかみ、苦の系列を支える渇きです。
感受から取へ
縁起では、感受を条件として渇愛があり、渇愛を条件として取があります。
快い感受そのものが直ちに罪なのではありません。快を永続させたい、不快を排除したいという渇きが生じ、それを対象・見解・自己像として強くつかむとき、苦が増幅します。
生物学との比較
渇愛を生存本能や報酬系と比較すると、反応の強さを理解する補助線になる場合があります。しかし渇愛は「遺伝子に組み込まれたプログラム」と同じ概念ではありません。
初期仏教では、渇愛は倫理、再生、執着、解脱という文脈に置かれます。現代科学の説明を、原典の定義へ置き換えないことが必要です。