理性は万能ではない。だからこそ、鍛えなければならない
理性を個人の才能ではなく、経験・制作・編集・出版・批判によって鍛えられる営みとして読む。
『百科全書』を開くと、哲学者の抽象的な議論だけでなく、道具を握る手や、ものが作られていく工程が図版になって現れます。
金属を加工する。布を織る。活字を組む。建物を造る。
知識は、学者の頭の中にだけあるのではない。職人の動作にも、工房の配置にも、道具の形にもある。その知を言葉と図へ移し、互いに関連づけ、見知らぬ読者へ渡す。ディドロとダランベールが中心となった『百科全書』は、巨大な本である前に、知識を作り直す共同作業でした。
その正式な題名には、「科学・技芸・職業の体系的辞典」という意味が込められています。
ここに、啓蒙思想の理性観がよく表れています。理性は、一人の天才の頭の中で完成する光ではありません。観察する人、技術を持つ人、文章を書く人、図を彫る人、編集する人、印刷する人、読む人がつながることで、初めて社会の中で働きます。
『百科全書』の序論は、人間の知識を記憶・理性・想像力の働きに沿って整理しようとしました。知識を雑多に積み上げるのではなく、何と何がつながっているのかを示そうとしたのです。
しかし、知識を分類することは、中立な整理だけではありません。
何を知識として載せるのか。誰の技術を記録するのか。どの項目を中心に置き、何を周辺へ追いやるのか。宗教的・政治的な権威を、どこまで批判の対象にできるのか。
知識の地図を作ることは、世界の見方を組み替えることでもあります。
そのため『百科全書』は、国家や教会と衝突しました。1759年、フランス王権は出版の特許を取り消し、既刊の七巻を焼却するよう命じます。それでも制作は終わらず、形を変えながら本文十七巻、図版十一巻へと広がりました。
検閲は外からだけ来たわけでもありません。出版の工程では、印刷者がディドロの校了後に文章を削り、変更した痕跡も残っています。知識を公にする仕事は、権力と市場と制作現場のあいだで進む、危うい交渉でした。
ここで、「啓蒙思想は理性を万能だと信じた」という説明を見直す必要があります。
たしかに、多くの啓蒙思想家は、人間の理性的な能力に期待しました。しかし、その理性がいつも正しく働くと考えていたわけではありません。
ヒュームは、人間を抽象的に推論するだけの存在として見ませんでした。人は社交し、働き、恐れ、期待し、感情に動かされます。経験の繰り返しから習慣を作り、「これが起これば、次にこれが起こるだろう」と予測しながら生きています。
その予測は、数学の証明のように絶対確実ではありません。昨日まで続いたことが、明日も続くと私たちは期待する。しかし、その期待を純粋な論理だけで保証することはできません。
ヒュームの重要性は、理性を否定したことではありません。理性を、誤りやすい人間の生活へ戻したことです。
ロックの経験論も、人間の知識が生まれつき完成しているとは考えません。人は経験を通じて観念を得て、それらを比べ、組み合わせ、判断します。
この二人の議論と『百科全書』の仕事を重ねると、理性の別の姿が見えてきます。
理性は、すでに完成された答えではない。経験を集め、分類し、他者へ開き、反論を受け、間違いを修正していく過程である。
だから、理性が万能ではないことは、理性を捨てる理由にはなりません。万能ではないからこそ、一人に独占させず、公開し、批判し、修正できるようにする必要があります。
ただし、知識が公開されていれば、それだけで公共的だとも限りません。
現代の私たちは、かつてよりはるかに多くの情報へ触れられます。しかし、検索結果の順番、推薦される記事、分類の仕方、表示されない情報を誰が決めているのかは、見えにくくなっています。
知識の量が増えても、その入口と地図を誰かに任せきっているなら、判断の条件まで預けているかもしれません。
知の公共化は、すぐに政治の問題へ変わります。
誰が知ることを許されるのか。誰が話すことを許されるのか。そして、誰の判断に従うべきなのか。
次に問われるのは、人が権力に対して、どのような権利を持つのかということです。