性即理は、なぜ修養を不要にしないのか――本性と学びのあいだ
『中庸章句』の「性即理」を起点に、本性の善さと現実の判断を同一視せず、学びと修養が必要になる理由を考えます。
「本性は善い」なら、そのままでよいのか
第1章では、理と気が区別されながら、現実には離れないことを見ました。その理を人間の側から語るとき、朱子学の核心である性即理が現れます。
一見すると、これは心強い言葉です。人の本性が理なら、自分の内側を信じればよい。しかし、朱熹の文章はそこで止まりません。
『中庸章句』は「天命之謂性」という本文に、短くこう注します。
性は、即ち理なり。
続いて、気が形を成し、理もまたそこに賦与されると説明します。そして、性と道は同じでも気稟には違いがあり、過不足が生じるため、教えが必要になると論じます。
性即理は、いまの判断がすべて正しいという免許証ではありません。人が学びうる根拠であると同時に、学ばなければならない理由でもあります。
性・道・教は、一続きになっている
『中庸章句』の冒頭には、三つの語が並びます。
- 性:人や物に与えられた理
- 道:その性に従い、日々の事の中で通るべき筋道
- 教:過不足がある現実の中で、その筋道を整える営み
ここで性は、心の奥にしまわれた宝石ではありません。日用の事物の間で、どう応答すべきかという道へ開かれています。
たとえば、友人との約束を守ることが大切だと分かっていても、体調、事情、相手との関係は一様ではありません。原則だけを叫んでも足りず、都合だけで約束を破っても足りない。何がこの場で誠実なのかを学び、確かめ、行う必要があります。
「人間信頼」という読みは、原典の後に置く
性即理から、人間を根本的に見捨てない思想を読み取ることはできます。失敗した人も、学び直し、行いを改める可能性から排除されていないからです。
ただし、「性即理は現代的な人間の尊厳を宣言した」という言い方は、朱熹の直接の言葉ではありません。これは原典を今日へ移した、この記事の読解です。
その区別をした方が、むしろ問いは鋭くなります。本性が善いというなら、なぜ私たちは自分に都合のよい理屈を作るのか。なぜ同じ場面でも、怒りや恐れによって判断が変わるのか。
朱子学は、その隔たりを気質の問題として考えます。次章では、本然の性と気質の性、そして性と情を統べる心の働きを読みます。