朱子学を学ぶ 第一部
3章 / 全5

善を知る人が、なぜ判断を誤るのか――本然の性・気質の性・心統性情

本然の性と気質の性を二つの別物にせず、性・情・心の動きから、人が迷いながら学び直せる構造を読み解きます。

nakano
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正しいつもりのときほど、自分は見えにくい

誰かを責めているとき、私たちはしばしば「正しいことを言っている」と思っています。原則は間違っていない。それでも、言い方や時機や、自分が守ろうとしているものを見落とせば、正しさは相手を傷つける力にもなります。

性が理であるなら、なぜこのずれが生じるのか。朱子学は、人の性を語るとき、理だけでも気だけでも足りないと考えます。

『朱子語類』には、程子の言葉として次の注意が記されています。

性を論じて気を論ぜざれば備わらず、気を論じて性を論ぜざれば明らかならず。二つにすれば即ち是ならず。

理と気の両方を見なければ説明は足りない。しかし二つの独立した性に分けてもいけない。これが、本然の性と気質の性を読む出発点です。


本然の性と気質の性は、二人の自分ではない

本然の性は、性を理の側から語る言い方です。朱熹は、性の根本には善でないものはないと考えます。

気質の性は、その性が現実の身体や気質を離れずに現れていることを語る言い方です。『朱子語類』は、天地の性を論じるときは理を指し、気質の性を論じるときは理と気を合わせて言う、と説明します。

ここで、光とグラスの比喩は役に立ちます。光が同じでも、通るガラスの色や曇りによって見え方は変わる。ただし、これは理解のための補助線です。実際の人間は、光源と器を物理的に分解できる装置ではありません。性は気質を離れて現れず、気質も性を欠いて人間のあり方にはなりません。

だから、気質は「生まれつきだから仕方がない」という言い訳にも、「曇りを除けば完璧になる」という単純な楽観にもなりません。自分の偏りを具体的な場面で知り、学びによって変えていく課題を示します。


感情は、理の敵ではない

朱子学を感情抑圧の思想と読むと、重要な点を落とします。『中庸章句』は、喜怒哀楽がまだ発していない状態を「中」、発してすべて節に中る状態を「和」とします。

問題は、怒りや悲しみが生じること自体ではありません。その感情が、誰に、いつ、どの程度、どのように向かうかです。

不正を見て怒ることが必要な場面もあります。しかし怒りが自分の面子を守るために膨らみ、相手を罰する快感へ変われば、同じ「怒り」という名でも、場にかなった働きから離れていきます。


心は、性と情を切り離さずに引き受ける

朱熹は、張載の心統性情という命題を受け継ぎます。『朱子語類』では、「性は心の理、情は心の用」と説明されます。

心を、上から感情へ命令するコントロールタワーとだけ考える必要はありません。心は、まだ発していない性の理と、具体的な事に触れて動く情の両方が生きる場です。性を知るには情の動きを観察し、情を整えるには何が場にかなうかを学ばなければなりません。

性・気質・心・情の関係図

現実の不完全さは、欠陥の烙印ではありません。しかし、無条件の自己肯定でもありません。自分の感情が何に触れ、何を守ろうとし、どこで過不足を生んだのかを確かめる。その作業を朱子学は修養の問題にします。

次章では、その修養を支える居敬と窮理を読みます。