バクティ
概要
バクティ(bhakti)は、神への信愛、献身、参与を表す言葉です。『バガヴァッド・ギーター』では、とりわけクリシュナへ心を向け、行為を捧げ、クリシュナをよりどころとする関係として語られます。
バクティを、知識や行為に失敗した人が最後に選ぶ「感情の道」とだけ考えることはできません。ギーターでは、知ること、行為すること、繰り返し心を向けること、行為の果実を手放すことが、バクティのもとで結び直されます。
第12章の複数の入口
第12章でアルジュナは、人格をもつクリシュナへ信愛を向ける者と、形をもたない不滅のものを求める者のどちらが優れた実践者かを尋ねます。
クリシュナは、自分へ心を定め、深い信頼をもって礼拝する者を高く評価します。同時に、非顕現者を求める者も自分へ至ると述べます。ただし、身体をもつ者には困難が大きいとされます。
8節から12節には、能力に応じた入口が示されます。
- 心と知性をクリシュナへ置く
- 難しければ、繰り返し心を向ける修習をする
- 難しければ、クリシュナのために行為する
- 難しければ、行為の果実を手放す
一つの「最速の道」だけを示すというより、異なる実践を信愛へ結ぶ構成です。
知とグナの超越との関係
第14章26節では、揺るがないバクティによってクリシュナに仕える者が三グナを超えると語られます。第18章54〜55節では、ブラフマンの境地、最高のバクティ、クリシュナを真実に知ることが連続します。
そのため、知とバクティを単純な対立にはできません。知識が関係のない情報で終わらず、誰へ心を向け、何のために行為するかへ届くとき、バクティと結ばれます。
帰依と責任
第18章66節では、すべてのダルマを捨て、クリシュナだけをよりどころとするよう説かれます。ただし、何を「捨てる」と読むかは注釈によって異なります。祭式的な義務、贖罪、身分・生活段階の義務、自己の功績への依存など、強調点は一つではありません。
直前の63節では十分に考察して望むように行うことが促され、73節ではアルジュナが「私は行います」と答えます。したがって帰依を、思考や行為や責任の放棄と同一視することはできません。
親鸞の他力との比較
親鸞の他力とバクティは、自分の努力を救済の所有物にしないという問いで比較できます。しかし、同じ教えではありません。
他力は阿弥陀仏の本願と念仏を中心とする浄土教の言葉です。ギーターのバクティは、クリシュナへの信愛を知、行為、ダルマと結びます。比較するときは「自力の限界」という共通点だけでなく、誰に、何を、どのように委ねるのかという相違を残す必要があります。
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さらに深く知るためのガイド
- 『バガヴァッド・ギーター』第12章
- 『バガヴァッド・ギーター』第14章26節
- 『バガヴァッド・ギーター』第18章54〜73節