識変における見分と相分
nakano
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概要
唯識では、認識する側と認識される像を、識の転変に現れる見分(けんぶん)と相分(そうぶん)として分析します。
「主客未分」という言い方は、この関係を現代語で説明する補助線にはなります。ただし、『成唯識論』の術語や議論を、その一語だけで置き換えると細部が失われます。
詳細解説
『唯識三十論頌』は、諸識の転変に分別する側と分別される側が現れると説きます。『成唯識論』では、この認識構造が見分・相分などの分として詳しく論じられます。
この教説は、「外界の代わりに頭の中の映像を見る小さな観客がいる」という説明ではありません。その構図では、映像を見る別の主体を再び想定することになるからです。
唯識が問うのは、独立した「見る私」と独立した「見られる物」が最初から完成しており、その後で接触するという前提です。三性説では、この主客へ実体性を重ねるあり方が遍計所執性として問題になります。
量子力学の観測問題や現代の認知科学と比較することはできますが、研究対象、方法、目的は異なります。物理学上の観測者と唯識の見分を同一視しても、唯識の正しさを物理学で証明したことにはなりません。